中御門宣綱
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中御門 宣綱︵なかのみかど のぶつな、永正8年︵1511年︶ - 永禄12年︵1569年︶4月︶は、戦国時代の公卿。従二位権中納言。中御門宣秀の長男。母は吉田兼倶の娘。妻は今川氏親と寿桂尼︵宣秀の妹︶の娘。
略歴[編集]
永正9年︵1512年︶に叙爵を受け、永正16年︵1519年︶に右衛門佐に任じられ、同年暮れに従五位上に叙される[1]。その後、大永3年︵1523年︶に正五位下、大永4年︵1524年︶には右少弁、大永5年︵1525年︶には左少弁、大永6年︵1526年︶に正五位上に任ぜられる[1]。大永7年︵1527年︶4月、叔母の夫である今川氏親が亡くなったために父と共に駿河に下り、2年間にわたって滞在した[2]。享禄2年︵1529年︶に右中弁に任じられるが[1]、享禄4年︵1531年︶7月に父が没すると8月には再び駿河国に下った[2]。叔母の寿桂尼の勧めで今川氏親の娘を娶った︵つまりいとこ同士の婚姻をした︶ことにより、以降京都と駿河を往復するようになり、通算して20年以上にわたって駿河に滞在するようになる[2]。天文2年︵1533年︶に侍従に任じられ、天文11年︵1542年︶に従四位下、天文18年︵1549年︶に従四位上参議に任ぜられ、天文19年︵1550年︶に参議を辞任するが、この頃正四位上に任じられる︵時期は不明︶[1]。天文23年︵1554年︶3月に従三位、天文24年︵1555年︶9月に権中納言に任じられる[1]。しかし、弘治2年︵1556年︶に駿河に下ると、二度と京都の土を踏むことはなかった[2]。同年11月に駿河を訪問した山科言継が、今川義元・三条西実澄・中御門宣綱・関口氏純らと句会を開いている[2]。しかし、永禄2年︵1569年︶に武田信玄が今川氏真を攻めると︵駿河侵攻︶、今川氏真と同行して朝比奈泰朝のいる遠江掛川城に逃れる︵氏真は妻の甥、泰朝の父の泰能の正室は宣綱の姉にあたる︶[2]。しかし、徳川家康に掛川城に包囲されて籠城中に病死する[2]。死に際し、従二位に叙された[1]。系譜[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 橋本政宣 編『公家事典』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4-642-01442-7。
- 小和田美智子「中御門宣綱」『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年。ISBN 978-4-642-01348-2。