久坂玄機
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久坂 玄機︵くさか げんき、文政3年︵1820年︶ - 嘉永7年2月27日︵1854年3月25日︶︶は、幕末の長州藩士、蘭学家、医師。適塾塾頭。名は真︵まこと︶、静。天籟と号す。久坂玄瑞の兄。
経歴[編集]
文政3年︵1820年︶長門国萩平安古︵ひやこ︶石屋町︵現・山口県萩市︶に萩藩医・久坂良迪、富子の長男として生まれる。長州藩医きっての俊英で、弟の玄瑞とともに﹁坂家の連璧︵ばんけのれんぺき︶﹂と称せられた。久坂玄瑞とは20歳の年の差があったが、後の玄瑞の思想、行動に大きな影響を与えた。 弘化4年︵1847年︶6月に緒方洪庵の適塾に客分の処遇で籍を置く。翌嘉永元年︵1848年︶3月に適塾塾頭となる。しかし、翌年、召還の藩命が下り、好生館の都講に任ぜられる。適塾塾頭は同じ長州の村田蔵六が継承した。長州藩初の藩内種痘実施に際して、引痘主任を命ぜられ、藩下で種痘を組織的に行った。嘉永3年︵1850年︶6月に好生館の書物方を兼任し、また、最年少︵31歳︶の本道科教授となる。 海外事情に通じており、西洋軍事学に関する藩内の評価も高く、藩命により、﹃演砲法律﹄、﹃銃隊指揮令﹄、﹃新撰海軍砲術論﹄、﹃和蘭陀紀略内編﹄、﹃抜太抜亜志﹄、﹃新訳小史﹄など数多くの翻訳書を残した。このような玄機の西洋学問研究は、弟の久坂玄瑞に相当の影響と感化を与えたと言われている。 そして、海防については、幾度も藩政府から意見具申を求められ、病床にありながら、藩主毛利敬親に上書建白した数日後の嘉永7年︵1854年︶2月27日に逝去した。享年35。 明治44年︵1911年︶、正五位を追贈された[1]。脚注[編集]
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28
参考文献[編集]
- 『日本の思想家50 高杉晋作 久坂玄瑞』 (2012年)