毛利敬親
毛利 慶親 / 毛利 敬親 | |
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政2年2月10日[1](1819年3月5日) |
死没 | 明治4年3月28日(1871年5月17日)[1] |
改名 |
猶之進(幼名、ゆうのしん→みちのしん[1]) →教明[1]→慶親→敬親 |
別名 | 渾名:そうせい侯 |
諡号 | 忠正公[1] |
神号 | 敬親命[1] |
官位 | 従四位下・侍従・大膳大夫、左近衛権少将、従四位上、左近衛権中将、参議、従三位、従二位・権大納言、贈従一位、贈正一位[1] |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂、明治天皇 |
藩 | 長州藩藩主 |
氏族 | 安芸福原氏→毛利氏 |
父母 |
父:毛利斉元[1]、母:原田氏[1] 養父:毛利斉広[1] |
兄弟 | 敬親、牧之助、三寿姫(益田親興室)、孝子(伊達宗徳継室)、教徳、嘉姫 |
妻 | 正室:毛利都美子(毛利斉広娘)[2] |
子 |
寿美姫[2]、波津姫[2]、猶之進、万世姫(いずれも夭折) 養子:順明(斉広異母弟・信順の子)、元徳(徳山毛利広鎮の十男)[3]、安子(銀姫)(毛利元徳室、毛利元運娘)[3]、保子(毛利元敏室、正親町三条実愛の娘)、俊姫(山内豊範室、順明の姉または妹) |
毛利 敬親 / 慶親︵もうり たかちか / よしちか︶は、江戸時代後期から明治時代初期の大名。毛利氏27代当主。長州藩13代藩主。幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけの一つとなった。
毛利敬親騎馬像︵山口市亀山公園︶
天保9年︵1838年︶に萩に入り、翌年より質素倹約と貨幣流通の改正を行う。
村田清風を登用して藩政改革を断行。村田の死後は村田とともに藩政改革を担った坪井九右衛門を登用。
天保12年︵1841年︶、江戸に文武修業の場である藩校・有備館を建設。領内の実態調査を実施し、天保14年︵1843年︶には萩で練兵を行い、藩の軍事力の強化にも努めた。
慶親の改革はこれだけに留まらず、嘉永2年︵1849年︶に国許の藩校である明倫館の改革をも断行した。
毛利敬親と毛利元徳
慶応元年︵1865年︶、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵し、椋梨藤太ら俗論派︵保守派︶を打倒するクーデターを実行する︵功山寺挙兵︶。これにより正義派︵倒幕派︶政権が成立すると、高杉らが結成した奇兵隊や民間の軍事組織である長州藩諸隊を整備し、大村益次郎を登用して西洋式軍制を採用し、ゲベール銃やミニエー銃など新式兵器を配備して、戦術の転換など大規模な軍事改革を行う。慶応2年︵1866年︶、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、同年8月の幕長戦争︵第二次長州征伐︶にも勝利した。慶応3年︵1867年︶、イギリスとの関係を構築し、10月には討幕の密勅を受けた。そして同年11月には薩摩藩らと共に官軍を組織して上洛、12月には朝議により朝敵を赦免されるとともに王政復古の大号令を成功させる。敬親は慶応4年︵1868年︶5月に上洛し、明治天皇に拝謁して左近衛権中将に任ぜられると山口へと帰った。
イギリスのキング提督︵英語版︶や毛利元徳と︵ライデン大学蔵︶
※日付は旧暦。明治5年以降は新暦。
●天保8年︵1837年︶
●4月27日、家督を相続し、藩主となる。
●6月18日、従四位下に叙位[1]。侍従に任じ、大膳大夫と名乗る[1]。将軍徳川家慶の偏諱﹁慶﹂を賜り、諱を教明から慶親に改める。
●弘化4年︵1847年︶12月、左近衛権少将に任ず[1]。
●安政4年︵1857年︶12月16日、従四位上に叙す[1]。
●安政6年︵1859年︶12月、左近衛権中将に任ず[1]。
●文久3年︵1863年︶
●1月17日、参議に補任[1]。
●8月18日、国許にて謹慎処分となる。
●元治元年︵1864年︶8月24日、禁門の変により、朝敵とされ官職・位階を剥奪される。松平の名字と徳川家慶の偏諱である﹁慶﹂の字も幕府に召し上げられ、敬親と改める︵松平大膳大夫慶親から毛利大膳敬親へ︶。
●慶応2年︵1866年︶3月1日、所領10万石の削減、敬親父子の蟄居の幕命が下るもこれを無視し、幕府との交渉決裂。
●6月7日、第二次長州征伐︵四境戦争︶が始まる。
●慶応3年︵1867年︶12月8日、従四位上参議に復帰。
●明治元年︵1868年︶9月18日、従三位に叙す[1]。左近衛権中将を兼任。
●明治2年︵1869年︶
●6月2日、従二位に叙す[1]。権大納言に任ず[1]。
●6月4日、隠居。家督は養子毛利元徳が継承。
●明治4年︵1871年︶
●3月28日、薨去。
●4月15日、贈従一位。
●明治6年︵1873年︶9月25日、忠正神社を創建し、主祭神として祀られる。
●明治9年︵1876年︶10月27日、忠正神社は野田神社に改称。
●明治34年︵1901年︶
●5月15日、贈正一位[6]。
●5月16日、野田神社は別格官幣社となる。
生涯[編集]
家督相続以前[編集]
敬親は文政2年︵1819年︶2月10日、毛利親著の長子で世襲家老家一門八家の一つである福原家当主・福原房純の養嗣子である福原房昌︵のちの毛利斉元︶の長子として生まれた[1]。母は側室の原田氏[1]。後に公儀には3歳若く文政5年︵1822年︶生まれと届け出されたが、これは先代藩主となった毛利斉広の官年を文政2年生まれ︵実年齢より5歳若い︶と届け出たこととの釣り合いによる[4]。同年8月28日に房昌は毛利本家に戻り、9月10日に毛利斉熙の養子となって毛利教元に改名、11月11日に斉元と改名して、後に11代藩主となる。幼名は猶之進といった。のちに教元を名乗っていた父から偏諱を与えられて教明︵のりあき︶[1]と名乗る。 天保7年︵1836年︶6月12日、教明は萩城下の阿武川の分流橋本川川岸の南苑邸にいたとき、俗に﹁申歳の大水﹂といわれる萩開府以来の大洪水に遭遇する。南苑邸には川上から倒壊した家屋などが流れ込み、見分けがつかないほど荒廃したために、御客屋に避難した。家督相続[編集]
洪水があって3か月とたたない天保7年︵1836年︶9月8日に父が死去し、その跡を継いで12代藩主となった毛利斉広も幕府への手続きが終わってからわずか20日足らずで死去した。 教明には8代藩主・毛利治親の姻族田安徳川家から養子縁組の話があったり、斉広に教明より年長の異母弟の毛利信順がいたりしたものの、教明が斉広の養子︵斉広の存命を装っての末期養子手続きがとられた[5]︶となって天保8年︵1837年︶に家督を継いだ[1]。同年、12代将軍・徳川家慶の偏諱を与えられて教明から慶親に改名した︵﹁親﹂の字は祖父・親著に由来する︶。家督相続に当たり、斉広の長女都美姫を正室とすることが取り決められていたが、都美姫は当時数え5歳とまだ幼少だったため、正式な婚儀は10年後の弘化3年︵1847年︶に執り行われた。藩政改革[編集]
第一次長州征伐[編集]
嘉永6年︵1853年︶、アメリカの提督マシュー・ペリーの黒船が来航すると相模国周辺の警備に当たった。安政4年︵1858年︶8月、密勅を受け﹁尊王﹂に尽力することとなった。同年、坪井九右衛門を引退させ、周布政之助らを登用する。また、藩論として﹁攘夷﹂の意見を幕府に提出した。以後、慶親は周布を重用し藩是三大綱を決定、藩の体制強化と洋式軍制を導入する改革を開始した。 文久元年︵1861年︶、長井雅楽を登用し航海遠略策により朝廷と幕府との協調策を模索するが政局の主導権を長州藩に握られることを恐れた薩摩藩の妨害によって、長井の政略は失敗した。この後、藩論は周布や桂小五郎らが主導する攘夷へと大きく方針を転換した。文久2年︵1862年︶7月、攘夷の実行を藩の方針とし、文久3年︵1863年︶4月には藩庁を海防上の理由から海沿いの萩城から山口城に移転させ︵山口移鎮︶、5月に外国船の打ち払いを開始したがアメリカやフランスの軍艦からの報復攻撃を受けた。同年の﹁八月十八日の政変﹂により長州藩は京を追われた。翌元治元年︵1864年︶6月、池田屋事件で多くの長州藩士を含む志士らが会津藩麾下の新選組によって殺害・捕縛されるにおよび、長州藩は京に出兵し7月には禁門の変を引き起こした。この長州藩の暴挙に対して、朝廷は幕府に長州征討を命じ、8月には慶親の官位を剥奪した。また、将軍家から賜った偏諱も剥奪され、慶親から敬親に改めた。さらに同8月には、英仏蘭米の4ヵ国の連合艦隊が下関に襲来し、敗北する︵下関戦争︶。第一次長州征伐が開始されると、敬親は国司親相、益田親施、福原元僴ら3家老を切腹させ恭順し、10月には萩に謹慎した。尊王攘夷から尊王開国、薩長同盟と倒幕[編集]
晩年と最期[編集]
明治2年︵1869年︶1月、敬親は島津忠義︵薩摩藩主︶、山内豊範︵土佐藩主︶、鍋島直大︵佐賀藩主︶と連署して版籍奉還を奉請した。6月には権大納言の位を得て、養嗣子の毛利元徳と共に10万石を下賜されている。6月4日に家督を元徳に譲って隠居した[1]。明治4年︵1871年︶3月、山口藩庁内殿で死去[1]。享年53[1]。経歴[編集]
人物・逸話[編集]
●敬親が藩主に就任した頃、長州藩は財政難に苦しんでいた。敬親はそれをよく知っていたため、木綿服を着て質素な振る舞いを見せながらお国入りをしたため、民衆に感激されたという︵中原邦平の忠正公勤王事跡︶[7]。 ●藩主就任後の天保9年︵1838年︶、初めて国入りをした時に家臣団に書いた訓示で、﹁思いがけなく家督を継ぎ、当惑している﹂﹁これまで藩主になる見込みのない部屋住みだったため、前藩主の直伝もないまま藩主になった﹂﹁若年で経験不足の自分一人で判断せず、補佐の家臣たちと分け隔てなく相談して政務にあたる﹂と率直な気持ちと決意を述べている[8]。 ●藩政改革では人材育成に尽力し、家柄や年齢にこだわらずに幕末の長州藩から高杉晋作などの優秀な人材を輩出させた。11歳年下で下級武士の息子である吉田松陰の才を評価して重用し、自ら松陰の門下となったエピソードは、松陰の秀才ぶりと同時に敬親の人柄を示すものとしても語られることが多い。敬親は松陰を﹁儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる﹂と言ったという︵玖村敏雄の﹁吉田松陰﹂︶[9]。敬親の人柄は長州志士からも慕われており、彼らが維新後に敬親を顕彰して建てた石碑などが、旧長州藩内に多く現存する。 ●家臣の意見に対して異議を唱えることがなく、常に﹁うん、そうせい﹂と返答していたため﹁そうせい侯︵公︶﹂と呼ばれていたと言われるが、当時からそう呼ばれていたわけではなく、戦後の小説家が﹁忠正公﹂をもじってそのように評したことから広まった。 ●一部に政治的には賢明な藩主ではなかったとの評価もあり、幕末の四賢侯にも数えられていない。﹁侯(こう)﹂は、諸侯、すなわち大名のこと。 ●藩政は家臣任せだったが、重要段階では必ず自ら決断した。 ●文久2年︵1862年︶、航海遠略策による公武合体から尊王攘夷へ藩是を転換するにあたり﹁何程の艱難にても︵朝廷への︶忠節確守し、︵幕府への︶信義・︵祖先への︶孝道従いて相立ち候様処置せしめる﹂と宣言した。 ●元治元年︵1864年︶9月25日の午前4時から、敬親が臨席し藩の命運を賭けた会議が開かれた。このとき第1次長州征伐で幕府軍が長州に迫っており、藩内では侃侃諤々︵かんかんがくがく︶の論戦が行なわれた。昼頃、小姓が﹁食事が出来ました﹂と述べると、井上馨が﹁藩の運命、ひいては国家の運命がかかっている大事な会議に食事をしている時間などないはず。早く結論を出すべき﹂とさえぎった。午後7時になっても結論は出なかったが、家臣の意見はほぼ出尽くしていた。敬親はこのときになって初めて口を開き、﹁我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ﹂と述べるとその場を後にしたという︵井上伯伝。忠正公勤王事跡︶[9]。 ●慶応2年︵1866年︶、薩摩藩への返礼使節の正使として木戸孝允が薩摩へ出立する前に、﹁下関海峡を閉ざして天下の勢を控制しようという論が起こったならば、決して承諾してはならぬ。天下の人を苦しめて自己の功業を成すということは卑しいことである。たとえ連合が破れても聞いてはならぬ﹂﹁正道を践みて誠意を天下に通徹せん﹂と伝えた。薩摩からは薩長国産貿易商社を設立しようと提案があったが、薩摩入りした木戸はそれを正式に断った[10]。 ●逆に家臣の提言を拒否した例としては、元治元年︵1864年︶6月下関戦争の直前に英国から帰国した井上馨・伊藤博文両名からの止戦説得が挙げられる。 ●同じような例として、文久三年︵1863年︶井上馨が密航留学を申し出た時に、﹁かようなことを予に直接、願うものではない﹂︵=反対はしないが、しかるべき手順を踏め︶と井上に告げたことがある。 ●土佐藩主・山内豊範が養女の婿という関係で山内容堂と交友があった。ある時、敬親の近侍が豊信︵容堂︶の隠居部屋を訪れると欄干に﹁酔擁美人楼﹂という額がかかっていた。当時の大名としては珍しいくらいくだけた雰囲気に、近侍は感心して敬親に話した。すると﹁こういう言は酒が飲みたくてもできず、美人を抱きたくても抱く余裕の無い者が好んで口にするものである。容堂はいやしくも24万石の太守で酒佳人は望み次第なのに、わざわざそんな額をかかげて人に見せるのは、自ら豪傑を装うものだ﹂と敬親は述べたという︵﹃涙余集﹄︶[9]。 ●慶応4年︵1868年︶閏4月14日、木戸孝允から版籍奉還を促された。全国の諸大名を納得させるために毛利家が率先して模範を示す必要があったからであるが、敬親は了承した。木戸は感涙して退出しようとすると、敬親は﹁待て﹂と呼び止め、﹁今は戦乱の世の中だから人々は気が荒立っている。これほどの変革を行なうとどういう事が起こるかわからないから、︵木戸が︶京都に行った上で、その時機を見計らってくれるように。﹂と注意した。木戸はそれを聞いて敬親に改めて礼を述べ、旧主が恐ろしく聡明であることを感じ取ったという︵木戸孝允文書。忠正公勤王事跡︶︵中原邦平講演。忠正公勤王事跡︶[9]︵中原邦平講演。忠正公勤王事績︶[11]。 ●小説家の司馬遼太郎は﹃世に棲む日日﹄の中で、﹁敬親に世界観がなかった、といえばかれに酷だろう。かれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった﹂﹁ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた﹂と書いている。 ●清水義範は(清水 1997)の短編で敬親を取り上げ、﹁この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、という不思議な人も歴史の中には存在するということだ。﹂と評している。また版籍奉還後すぐ隠居したことから、私欲や野心が無かったと評している[12]。家臣[編集]
武鑑掲載の家臣[編集]
元治元年︵1864年︶刊行の江戸武鑑に登場する主要家臣は以下のとおり。なお、慶応元年から3年の武鑑では元治の時からの家臣情報の更新がなく、刊行の都合により掲載情報が元治元年以前のものを含んでいる可能性はある。また、武鑑では諸藩で呼び名が違う役職名を標準化している場合があるので、実際の藩職名と相違する場合もある。実際の藩職を︻︼内に付記する。 一門八家 ●宍戸備前 ●毛利筑前 ●毛利能登 ●毛利出雲 ●毛利豊之進 ●毛利隠岐 ●益田右衛門介 ●福原越後 家老 ●根来主馬 ●益田源兵衛 ●浦靱負︻加判役。当時退任︼ ●益田伊豆 ●宍戸播磨 ●井原主計︻加判役。5月就任︼ ●清水美作︻江戸当役︼ ●根来上総 ●国司信濃 ●清水清太郎︻国元加判役。12月切腹︼ ●志道安房 ●内藤佐渡 用人 ●井原孫右衛門 ●岡部内記 ●湯浅速水 ●児玉惣兵衛 ●福間舎人 ●梨羽直衛 ●河内尊令 ●毛利舎 ●大西将曹 ●天野九郎右衛門 ●粟屋刑部 ●林主悦 ●粟屋集太 ●出羽源八 側用人 ●中川衛士 ●高杉小忠太︻直目付、元治元年当時は退任︼ ●湯浅忠右衛門 ●飯田左門 ●久芳安積 ●上山縫殿 ●佐伯丹下 ●児玉主殿 ●毛利登人︻小姓︼ ●三田杢 ●井上小豊後 ●有地藤馬 ●小幡彦七︵城使兼務︶ ●藤井一学 ●大和国之介 ●榎本隼人 ●香川半介 ●八木隼雄 ●井原主水 ●杉徳輔︻小姓︼ ●児玉準 ●高杉東一 ●桂小五郎︻京都留守居役︼ ●内藤五郎兵衛 ●平田新右衛門 ●上田寛治 ●神村斎宮 城使︵側用人兼務者除く︶ ●遠藤太市郎 ●山添金之介偏諱を与えた人物[編集]
慶親・敬親時代 ●毛利親信︵右田毛利家︶ ●毛利親民︵厚狭毛利家、毛利元美の実弟︶ ●毛利親直︵吉敷毛利家︶ ●毛利親彦︵親倫︶︵阿川毛利家︶ ●毛利親経︵寛︶︵親彦の子︶ ●毛利親詮︵大野毛利家︶ ●粟屋親忠︵通称:粟屋帯刀︶ ●井原親章 ●浦 親教︵浦靱負の養子︶ ●熊谷親直︵安芸熊谷氏︶ ●国司親相 ●佐佐木親辰︵尼子氏末裔・佐佐木氏、佐佐木房高養子・元久の子で、浦親教の実兄︶ ●宍戸親基︵宍戸氏︶ ●志道親良 ●清水親春 ●清水親知︵親春の養子︶ ●根来親祐︵通称:根来上総︶ ●根来親保︵上総の子︶ ●福原親俊︵宇部領主福原家︶ ●鈴尾親徳︵福原親俊の養子・元僴の養子、のちの福原良通︶ ●益田親興︵義弟︵妹・三寿姫の夫︶、須佐領主益田家︶ ●益田親施︵親興の弟︶ ●益田親祥︵桂親澄︶︵毛利房謙の子、初め桂氏を相続、のち益田親施の養子︶ ●益田親孚︵益田氏分家︶系図[編集]
実際の親子関係のみを示す。
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| 隆元 | 吉川元春 | 小早川隆景 | 穂井田元清 |
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| 輝元 (長州藩祖) |
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| 就隆 (徳山1) | 光広 (長府2) |
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| 元知 (清末1) |
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| 綱広 (長州2) |
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| 元次 (徳山3) | 綱元 (長府3) |
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| 匡広 (清末2/長府6) |
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吉就 (長州3) | 吉広 (長州4) | 放光院 (匡広正室) | 広豊 (徳山5) | 吉元 (長州5) | 元矩 (長府5) | 師就 (長府7) | 政苗 (清末3) | 重就 (長府8/長州7) |
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| 就馴 (徳山7) | 宗元 (長府4) | 宗広 (長州6) | 匡満 (長府9) | 治親 (長州8) |
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| 匡芳 (長府10) | 親著 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 広鎮 (徳山8) |
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| 斉房 (長州9) | 斉煕 (長州10) |
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| 元義 (長府11) | 斉元 (長州11) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 元蕃 (徳山9) | 元徳 (長州14) | 由美子 (斉元正室) | 八重子 (元蕃正室) | 斉広 (長州12) | 信順 |
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| 元運 (長府12) | 敬親 (長州13) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 都美子 (敬親正室) | 順明 | 俊姫 (山内豊範正室) | 安子 (元徳正室) |
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脚注[編集]
(一)^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyz時山弥八編 1916, p. 124.
(二)^ abc時山弥八編 1916, p. 125.
(三)^ ab時山弥八編 1916, p. 126.
(四)^ 大森、p.171
(五)^ 大森、p.172-174
(六)^ 贈従一位毛利敬親正一位追陞ノ件︵ref.A10110075100︶、叙位裁可書・明治三十四年・叙位巻八、国立公文書館アジア歴史資料センター。
(七)^ 朝倉 & 三浦 1996, p. 1013.
(八)^ ﹃維新史回廊だより﹄第30号 2018年7月
(九)^ abcd朝倉 & 三浦 1996, p. 1014.
(十)^ “五代友厚 薩長国産貿易商社︵2︶”. 五代友厚とその足跡. 2020年4月23日閲覧。
(11)^ 中原邦平講演 776頁。
(12)^ 清水 1997, p. [要ページ番号].