佐々木安五郎
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/14/Yasugoro_Sasaki.jpg/220px-Yasugoro_Sasaki.jpg)
佐々木 安五郎[1]︵ささき やすごろう[2]、1872年2月25日︵明治5年1月17日︶ - 1934年︵昭和9年︶1月1日[2][3]︶は、日本の政治家、大陸浪人。衆議院議員︵東京府第8区選出、当選4回︶[2][4]。号は照山[3]。蒙古王の異名をとった。族籍は山口県平民[5][6]。
来歴[編集]
山口県豊浦郡阿川村︵現下関市︶に生まれる[1][4]。10代後半の時に政治に関心を持ち﹁点燈会﹂を作った[7]。隣村の滝部村で小学校の代用教員をしていたが、熊本の九州学院に入学し中国語を学んだ。1894年︵明治27年︶に卒業し[3]、日清戦争に陸軍の通訳として従軍、戦後は台湾総督府の吏員となった。しかし、乃木希典が総督を退くと総督府を辞職し、1898年︵明治31年︶には雑誌﹃高山國︵たかさご︶﹄[8]を発刊した。また﹃台湾民報﹄主筆となり、総督府の植民政策を批判した。鉱業に従事する[2]。 1904年︵明治37年︶、奈良県の資産家である土倉鶴松︵林業家土倉庄三郎の長男︶の依頼を受けて内モンゴルを探検、蒙古王と呼ばれるようになった。翌年の日比谷焼討事件で検挙された後、1908年︵明治41年︶には衆議院議員に当選した。以後、当選4回し、又新会、立憲国民党、革新倶楽部、新正倶楽部などに属し[3]、憲政擁護運動や営業税廃税運動などで活躍した。 1910年︵明治43年︶、白瀬矗の南極探検を支援する南極探検後援会が発足すると、幹事の一人になった[9] 。辛亥革命を支持し、1915年︵大正4年︶、東京の梅屋庄吉邸で開かれた孫文と宋慶齢の結婚パーティーにも参列している[10]。院外では浪人会に参加し、1918年︵大正7年︶には吉野作造と対決した。人物[編集]
住所は東京市外滝野川町田端[5][6]。家族・親族[編集]
佐々木家 ●妻・鍈︵1878年 - ?、東京、川島浪速の妹︶[5][6] ●男・靖︵1906年 - ?︶[5][6] 親戚 ●妻の兄・川島浪速︵大陸浪人︶著書[編集]
●﹃二千九百年前西域探検日誌﹄日高有倫堂、1910年︵復刻版、八幡書店、2000年︶。 ●﹃男子の意気﹄泰山房、1916年。 ●﹃ペンペン草﹄東京六連報社、1926年。訳書[編集]
●スコット著﹃大雄弁学﹄二松堂書店、1916年。脚注[編集]
- ^ a b 『衆議院要覧 下巻』289頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年3月24日閲覧。
- ^ a b c d 『議会制度七十年史 第11』207頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月1日閲覧。
- ^ a b c d 佐々木 安五郎とはコトバンク。2019年7月28日閲覧。
- ^ a b 『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』373頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月28日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第6版』さ32頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月28日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第7版』さ41 - 42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月28日閲覧。
- ^ 重松、2008年
- ^ 高山國 NCID AA1220261X
- ^ 白瀬南極探検隊記念館ホームページ
- ^ ナガジン!バックナンバー 2011年 9月 特集「孫文を支えた梅屋庄吉」