佐藤正三郎
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佐藤 正三郎︵さとう しょうざぶろう、1886年︵明治19年︶10月24日[1][2] - 1978年︵昭和53年︶4月9日[1][注 1]︶は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴[編集]
徳島県出身[1][2][3]。佐藤辰三郎の三男として生まれる[1]。1907年︵明治40年︶5月、陸軍士官学校︵19期︶を卒業[1][2][4]。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第43連隊付となる[1][4]。歩兵第62連隊付、陸軍戸山学校教官などを経て、1916年︵大正5年︶11月、陸軍大学校︵28期︶を卒業した[1][2][3]。 1917年︵大正6年︶8月、歩兵大尉に昇進し中支那派遣隊司令部付となる[1]。参謀本部員︵支那課︶、陸軍省軍務局課員︵軍事課︶、歩兵第3連隊付︵イギリス出張︶、イギリス駐在を務め、1922年︵大正11年︶8月、歩兵少佐に進級[1]。軍務局課員︵軍事課︶、参謀本部付︵李王付︶[3]を務め、1926年︵大正15年︶8月、歩兵中佐に昇進[1]。1927年︵昭和2年︶5月から1928年︵昭和3年︶4月まで、李王に随行して欧州に出張した[1]。1929年︵昭和4年︶12月、近衛歩兵第2連隊付に転じ、1930年︵昭和5年︶8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第32連隊長に就任[1][3]。 1932年︵昭和7年︶10月、第3師団参謀長に転じ、1935年︵昭和10年︶8月、陸軍少将に進級し歩兵第1旅団長となる[1][2][3]。二・二六事件により、1936年︵昭和11年︶3月に待命となり、同年7月、予備役に編入された[1][2][3]。日中戦争勃発により、1937年︵昭和12年︶9月に召集され歩兵第101旅団長に発令され出征した[1][2][3]。第二次上海事変、武漢作戦、南昌作戦、贛湘作戦などに参戦した[2]。1940年︵昭和15年︶2月、留守第1師団司令部付に転じ、同年8月、予備役陸軍中将に進むと同時に召集解除となった[1][2][3]。 その後、北樺太石油常務を務めた[1]。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『日本陸軍将官辞典』349頁では4月10日。