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信牌︵しんぱい︶とは、海舶互市新例によって、中国︵清︶船に持参が義務付けられた、長崎への入港許可証である。
18世紀初め、日本は鎖国中であったが、オランダと清とだけは長崎で貿易が行われていた。日本からの輸出品は少なく、大幅な入超の状態であり、対価として支払う金銀は莫大な量に上った。このため、新井白石は、1715年2月14日︵正徳5年1月11日︶、国際貿易額を制限するために海舶互市新例を制定した。この中で、中国船の長崎来航数を年間30隻と定め︵かつ出港地別にも隻数が定められた︶、また来航した中国船のうち、新令に違反しないことを誓約した者だけに信牌を発行し、以降は信牌を持った者に限り貿易を認めることとした。中国船の所持する信牌は、奉行所が持つ﹁割符留帳︵わっぷとめちょう︶﹂と照合された。
この信牌は実質的には江戸幕府の管理下にあったが、形式的には唐通事が交付するものとした。これは清の反発を恐れたためである。中国では、伝統的に信牌とは朝貢国に対して与えるものであった。従って、幕府が中国船に信牌を交付すると、中国が日本に朝貢したかのように見えるため、摩擦の発生が予想された。実際に、信牌を得られなかった中国商人が、信牌を入手した中国商人を、清朝に対する反逆者であると訴える事件が起こっている。結果として、清朝政府は信牌を没収し、一時貿易が停滞した。白石はこれを予想しており、信牌は幕府が交付したものではないため、日本への服属を意味しないと抗議を行い、清も2年後の1717年︵享保2年︶にはこれを認めている。
なお、オランダ船は年2隻と定められたが、日蘭貿易はオランダ東インド会社が独占していたため、信牌は発行されなかった。
ラクスマンに対する信牌[編集]
ロシア帝国の陸軍軍人であったアダム・ラクスマンは、大黒屋光太夫ら漂流者を日本へ送還すると同時に、日本との通商を行うことを計画した。皇帝エカチェリーナ2世の命を受けることに成功し、ロシア最初の遣日使節となり、1792年︵寛政4年︶9月、根室国に到着した。ラクスマンは江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉を行なうことを希望したが、老中松平定信らは、通商を望むならば長崎に廻航させることを指示した︵長崎での限定的な貿易を考慮したとも︶。ラクスマンは信牌を交付されたが、目的は一応達成したとして長崎へは向かわずに帰国した。
12年後の1804年︵文化元年︶、ニコライ・レザノフは、ラクスマンが入手した信牌を携えて、長崎の出島に来航した。しかし、松平定信は既に失脚していたため交渉は進まず、レザノフたちは半年間出島に留め置かれることになる。翌1805年︵文化2年︶には長崎奉行遠山景晋から通商の拒絶を通告された。
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