内藤久寛
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内藤 久寛︵ないとう ひさひろ、1859年8月20日︵安政6年7月22日[1]︶- 1945年︵昭和20年︶1月29日[1]︶は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院勅選議員。幼名・駒二郎、旧名・道二郎[2]。明治期の石油産業の開拓者であり、日本石油を設立し﹁日本の石油王﹂と呼ばれた[1]。
経歴[編集]
越後国刈羽郡石地村︵現新潟県柏崎市西山町石地︶で、代々里正を務めた名家の内藤久之、貞子夫妻の二男として生まれる[3][4]。兄と姉が幼くして死去したため一人息子のように育った[3][4]。柏崎県黌、横浜の高島学校、新潟英語学校で学んだが、退学して衰退した実家の再建のため懸命に働いた[3][5]。 1879年︵明治12年︶4月、戸長に就任[6]。1885年︵明治18年︶新潟県会議員に当選した[1]。1894年︵明治27年︶3月、第3回衆議院議員総選挙に新潟県第6区から出馬して当選[7]。第4回総選挙でも当選し、進歩党に所属して衆議院議員を2期務めた[7]。 1886年︵明治19年︶日本初の農商務省認可水産組合、豊野浜水産組合が設立され、初代組合長に就任した[3]。尼瀬海岸での石油産出に注目し、1888年︵明治21年︶5月、山口権三郎、牧口荘三郎、本間新作、岸宇吉らと有限責任日本石油会社を設立して常務理事︵社長︶に就任[3][5][8]。海底油田︵尼瀬油田︶の開発、掘削機械の導入、業界二位の宝田石油との合併などを進め、1926年︵大正15年︶まで社長を務めた[3][5]。また、石油輸送の円滑化のため鉄道建設に取組み、北越鉄道、越後鉄道の建設と経営に尽力した[5]。 その他、新潟県水産組合連合会会頭、内閣経済調査会委員、内務省社会局参与、帝都復興院評議員、新潟鐵工所社長、日本工業倶楽部理事、日華学会理事などを務めた[7][9]。 1925年︵大正14年︶12月1日、貴族院勅選議員に任じられ[10]、研究会に属して活動した[9]。貴族院議員在任中の1945年1月29日に熱海市の別邸で急性肺炎のため死去[11]。著作[編集]
●﹃訪鄰紀程﹄内藤久寛、1918年。 ●﹃春風秋雨録﹄民友社、1919年。 ●﹃其の面影﹄内藤久寛、1924年。 ●﹃日本帝国の石油事業 : 附・石油坑道掘に関する所感﹄内藤久寛、1925年。親族[編集]
●孫 :内藤久一郎︵石地町長、衆議院議員︶[12] ●養子: 鷲郞 (妻は衆議院議員 関矢橘太郎娘 静)[13]生家[編集]
生家︵旧内藤久寛邸︶は柏崎市西山町石地にあり、明治天皇も滞在したことから﹁明治天皇行在所 明治天皇駐蹕碑︵ちゅうひつひ︶、長屋門﹂として柏崎市指定文化財となっている[14][15]。2022年︵令和4年︶に柏崎市の山田工業が取得し、2023年︵令和5年︶4月から一般公開されている[14][15]。脚注[編集]
(一)^ abcd﹃現代日本朝日人物事典﹄1126頁。
(二)^ ﹃奮闘活歴血涙のあと﹄66頁。
(三)^ abcdef﹃日本の創業者﹄183頁。
(四)^ ab﹃奮闘活歴血涙のあと﹄67-68頁。
(五)^ abcd﹃鉄道史人物事典﹄301頁。
(六)^ ﹃奮闘活歴血涙のあと﹄89頁。
(七)^ abc﹃議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑﹄436頁。
(八)^ ﹃新潟県県民百科事典﹄700頁。
(九)^ ab﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄145頁。
(十)^ ﹃官報﹄第3982号、大正14年12月2日。
(11)^ ﹃朝日新聞﹄ 1945年1月31日。
(12)^ 牧野利平編﹃越佐人物誌 中巻﹄野島出版、1972年、655頁。
(13)^ 人事興信録 第8版 ナ9
(14)^ ab“山田工業株式会社へ感謝状を贈呈します”. 柏崎市 (2023年4月27日). 2023年5月23日閲覧。
(15)^ ab“﹁日本の石油王﹂生家を一般公開、新潟柏崎市の企業が取得﹁次代につなげたい﹂ 日本石油創業者の内藤久寛邸”. 新潟日報 (2023年5月21日). 2023年5月23日閲覧。
参考文献[編集]
- 鉄道史学会編『鉄道史人物事典』日本経済評論社、2013年。
- 『日本の創業者:近現代起業家人名事典』日外アソシエーツ、2010年。
- 朝日新聞社編『現代日本朝日人物事典』朝日新聞社、1990年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 新潟日報事業社出版部編『新潟県大百科事典』復刻デスク版、新潟日報事業社出版部、1984年。
- 野島出版編集部編『新潟県県民百科事典』野島出版、1977年。
- 実業之日本社編『奮闘活歴血涙のあと』実業之日本社、1925年。
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