司空
司空︵しくう︶は、かつて中国にあった官職である。時代により職掌・地位が異なる。
歴史[編集]
西周から漢初までの司空[編集]
空は西周時代の金文史料で﹁工﹂の字で書かれており、司工︵司空︶は土木工事、各種工作を掌った[1]。 戦国時代の各国にも、秦や楚を除いて多くの国に置かれた。 戦国時代から漢代の文献や出土史料からは﹁都司空﹂﹁次司空﹂︵﹃墨子﹄︶・﹁国司空﹂︵﹃商君書﹄︶﹁県司空﹂﹁邦司空﹂︵﹃秦律雑抄﹄︶・﹁中司空﹂﹁郡司空﹂﹁宮司空﹂﹁県司空﹂︵﹃二年律令﹄︶・﹁獄司空﹂︵﹃洪範五行伝﹄︶などの存在が記されており、地方の様々な役所に司空が設置されていた。 前漢の中央政府に﹁司空﹂だけで呼ばれる官は見えないが、宗正の下に都司空令、少府の下に左司空令と右司空令、水衡都尉の下に水司空長があった[2]。 秦漢時代に官の工事は刑徒を動員して行われることが普通で、司空は刑徒︵囚人︶の管理︵治獄︶と治水や各種土木工事︵作事︶をあわせて掌った。だが、前漢後期以後、治獄と作事の役割が分離するようになると、各地にあった﹁司空﹂の名称は次第に用いられなくなった。儒教経典の司空[編集]
﹃書経﹄﹁堯典﹂には、舜帝が禹を司空にとりたて、水と土を平らげるよう命じたとある[3]。﹃史記﹄も同じ内容を記す[4]。﹃書経﹄﹁洪範﹂は、箕子の言葉として、夏・殷が禹の時代から受け継いだ八政の4番目に司空を挙げる[5]。堯・舜・禹は実在しない伝説上の人物であるから、その事績も同じである。 ﹃礼記﹄の一篇をなす﹁周礼﹂は、理想化した周の制度を記述して戦国時代に作られた書である。最高官である六官の一つに司空を配し、天地春夏秋冬に分けたうちの冬官とした。司空は土木・工作に携わる多くの官を率いた。 ﹁周官﹂は東晋の時代に出現して﹃書経﹄に含められた偽書である[6]。﹃周官﹄は司空を三公九卿の一つと位置づけた。最高位の三公の下にある九卿の一つ、その中でも六官の一つである。この司空は、国土を掌り、人民を住まわせ、土地をその性質と季節に従って活用することを任とした[7]。 これらは伝説や創作であり、実際に行われた制度ではない。経典解釈では﹁空﹂の意味をめぐって様々な説が立てられた[8]。漢の大司空と司空[編集]
儒教経典に書かれた架空の司空は、上古の制度にならおうとする儒教思想により、後代に現実化した。 前漢末、成帝の綏和元年︵紀元前8年︶に御史大夫を大司空と改称したのがその始まりである[9]。当初は司空に改称しようとして後から獄司空の存在を指摘され、これと区別するために﹁大﹂を覆加したという逸話が残されている[10] 。哀帝の建平2年︵紀元前5年︶に、大司空は御史大夫の名称に戻されたが、元寿2年︵紀元前1年︶に再び、大司空と改称した[9]。この大司空は、大司徒・大司馬とともに三公の一つであった。 新でも三公の大司馬、大司徒、大司空が置かれた。 後漢の建武27年︵51年︶、朱祜の上奏によって大司空は司空と改称された。以後、大司空はなくなり、司空として継承される。 献帝の建安13年︵208年︶6月、曹操によって三公制度が廃止されると設置されなくなったが、後漢から魏への禅譲により三公制度が復活すると、再び司空が設けられた。南北朝以降[編集]
南北朝時代以降、司空は高官の一つとして設けられた。その職掌は様々である。三公の一つとされることも、それより下の官とされることもあった。 南朝の宋では軍の最高職として司空が置かれた。 隋では名誉職であり、兵権を持たなかった。 明では、工部尚書の別称として用いられた。 清では、工部尚書の別称として用いられた。脚注[編集]
(一)^ ﹃﹃漢書﹄百官公卿表訳注﹄、10頁注13。
(二)^ ﹃漢書﹄巻19上、百官公卿表第7上。﹃﹃漢書﹄百官公卿表訳注﹄83頁、91頁、122頁。
(三)^ ﹃書経﹄﹁堯典﹂。新釈漢文体系﹃書経﹄上の38 - 39頁。
(四)^ ﹃史記﹄巻1、五帝本紀第1。新釈漢文体系﹃史記﹄1の60 - 61頁。ちくま学芸文庫版﹃史記﹄1の23頁。
(五)^ ﹃書経﹄﹁洪範﹂。新釈漢文体系﹃書経﹄上の153頁。
(六)^ 新釈漢文体系﹃書経﹄上の11-12頁。
(七)^ ﹃書経﹄﹁周官﹂。新釈漢文体系﹃書経﹄下の497頁。
(八)^ ﹃﹃漢書﹄百官公卿表訳注﹄9 -10頁。
(九)^ ab﹃漢書﹄巻19上、百官公卿表第7上、御史大夫。﹃﹃漢書﹄百官公卿表訳注﹄、27頁。
(十)^ ﹃続漢書﹄百官志注引﹃漢官儀﹄