北村初雄
北村 初雄︵きたむら はつお、 1897年︵明治30年︶2月13日 - 1922年︵大正11年︶12月2日[1]︶は、大正期の日本の詩人。
来歴[編集]
東京市麹町区飯田町︵現・東京都千代田区飯田橋︶で[2]、北村七郎の長男として生まれる[3]。 横浜市南太田町︵現・南区内︶で育ち[4][5]、1903年に横浜市老松小学校︵現・横浜市立本町小学校︶に入学した[5][2][6]。 1912年に神奈川県立第一横浜中学校︵現・神奈川県立希望ケ丘高等学校︶に進む[7][2]。中学校在学中から三木露風に師事した[3]。 1917年に中学校を卒業し[1]、東京高等商業学校︵現・一橋大学︶予科に入学した[8]。1921年に同校本科を卒業して[9][1]、三井物産に入社したが[3]、1922年に結核のため鵠沼の旅館東屋に転地療養し、同年死去した[2][1][10]。享年26︵満25歳没︶。 墓所は總持寺[2]。親族[編集]
父の北村七郎は三井物産の監査役などを務めた。妹の壽は児玉桂三東京大学名誉教授の妻。同じく妹の榮は山下太郎元山下汽船社長の妻[11]。ビオフェルミン製薬創業者の百崎俊雄は伯父[12][13]。詩集[編集]
- 『吾歳と春』未来社 1917年
- 『正午の果実 : 北村初雄詩集』稲門堂 1922年
脚注[編集]
(一)^ abcd"北村初雄". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2024年3月27日閲覧。
(二)^ abcde大日本人名辞書 下卷 新版
(三)^ abc瀬沼茂樹﹁一橋と文学﹂﹃橋問叢書﹄第22号、一橋の学問を考える会、1983年9月28日。
(四)^ 第●回大倉山講演会/文芸作品に表れた横浜の近代-北村初雄のハイカラー - 大倉精神文化研究所
(五)^ ab神奈川近代文学年表 明治31年~45年 - 神奈川近代文学館
(六)^ 有島生馬が学んだ、横浜市の老松︵おいまつ︶小学校の歴史を教えてください。 - 国立国会図書館レファレンス協同データベース︵2012年3月、横浜市中央図書館の事例︶
(七)^ 神奈川近代文学年表 大正元年~15年 - 神奈川近代文学館
(八)^ 官報 1917年04月05日
(九)^ 東京商科大学卒業生名簿 昭和16年5月末日現在
(十)^ 安齋七風、押田佳子、倉津耕大﹁湘南サナトリウムにおける近代メディカルツーリズムに関する研究﹂︵PDF︶﹃平成29年度日本大学理工学部学術講演会予稿集﹄、日本大学理工学部、2017年、359-360頁。
(11)^ 北村七郞 (第8版 [昭和3(1928)年7月 の情報)]日本研究のための歴史情報﹃人事興信録﹄データベース
(12)^ 百崎俊雄 (第8版 [昭和3(1928)年7月 の情報)]日本研究のための歴史情報﹃人事興信録﹄データベース
(13)^ 会員追悼録