原駒子
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はら こまこ 原 駒子 | |
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『白蝶秘門』(1932年) | |
本名 | 倉形 駒子 |
生年月日 | 1910年2月26日 |
没年月日 | 1968年12月28日(58歳没) |
出生地 | 日本 神奈川県横浜市翁町(現在の同県同市中区翁町) |
職業 | 女優 |
ジャンル | 劇映画(時代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1924年 - 1952年 |
配偶者 | 羅門光三郎(1931年 - 1935年) |
主な作品 | |
『鳴門秘帖』 『女左膳』 |
原 駒子︵はら こまこ、1910年2月26日 - 1968年12月28日[1]︶は、日本の女優である。本名は倉形 駒子︵くらがた こまこ︶、妖婦・毒婦役で知られ﹁姐御女優﹂と呼ばれた[1]。
人物・来歴[編集]
1910年︵明治43年︶2月26日、神奈川県横浜市翁町︵現在の同県同市中区翁町︶に生まれる[1][2]。 1924年︵大正13年︶、14歳のときに松竹キネマ下加茂撮影所に入社[1]、同年4月10日に公開された枝正義郎監督の﹃落日の夢﹄で、主演の沢村四郎五郎の相手役としてデビューした[1][3]。同年中に帝国キネマ演芸に引き抜かれ、同社の芦屋撮影所で製作した横山運平主演の﹃嘆きの村﹄と水島亮太郎主演の﹃愛するが故に﹄に出ただけで、翌1925年︵大正14年︶には東亜キネマに移籍している[3]。同社では、甲陽撮影所から等持院撮影所︵のちの東亜キネマ京都撮影所︶を経て、1931年︵昭和6年︶に同社が東活映画社に改組されるまでに109本に出演した[3]。同年、俳優の羅門光三郎と結婚した[4]。 1932年︵昭和7年︶、夫で俳優の羅門光三郎とともに東活映画社を退社、富国映画社を設立、奈良県生駒郡南生駒村︵現在の生駒市壱分町︶にある月形プロダクション撮影所を使用してサイレント映画を3作製作するが、同年中に宝塚キネマに移籍した[3]。同社は1934年︵昭和9年︶2月には解散するので、その後は京都の太秦地区で、日活、市川右太衛門の市川右太衛門プロダクション、永田雅一の第一映画、嵐寛寿郎の嵐寛寿郎プロダクションを転々とする[3]。同年、羅門光三郎と離婚した[4]。 1935年︵昭和10年︶11月、マキノ正博のマキノトーキー製作所設立に参加、26本に出演した[3]。同社が終焉していく1937年︵昭和12年︶2月の﹃女左膳﹄第1篇・第2篇を最後に、同社から多くの人材が流れた日活京都撮影所に移籍した[3]。これまではトップスターで主演作ばかりであったが、同撮影所では脇役に回り[4]、27本に出演した[3]。1940年︵昭和15年︶からは松竹下加茂撮影所に移籍した[3]。 第二次世界大戦終了後、1949年︵昭和24年︶、大映京都撮影所製作、木村恵吾監督の﹃大江戸七変化﹄に出演して復活した[2]。1952年︵昭和27年︶、児井プロダクション、新東宝提携、溝口健二監督の﹃西鶴一代女﹄に出演したのを最後に引退している[3]。女優引退後は、大阪の北新地で﹁クレーン﹂という名前のクラブを経営していた[5]。 1968年︵昭和43年︶12月28日、急性肺炎[4]で死去した[1]。満58歳没。200本以上の映画に出演した。おもなフィルモグラフィ[編集]
註[編集]
参考文献[編集]
- 『ズウズウ弁の初舞台 悔いなし、役者人生』、田崎潤、サイマル出版会、1983年8月 ISBN 4377406078
- 『日本無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年2月 ISBN 4900849758
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- Komako Hara - IMDb(英語)
- 原駒子 - 日本映画データベース
- 原駒子 - KINENOTE
- 原駒子 - allcinema