台湾日日新報
﹃台湾日日新報﹄︵たいわんにちにちしんぽう︶とは、日本統治時代の台湾において1898年︵明治31年︶5月1日に創刊され、日本統治時代最大で、もっとも長続きした新聞である[1]。
前史[編集]
1896年︵明治29年︶に﹃台湾新報﹄が初代台湾総督樺山資紀と同郷︵薩摩︶の民間人により創刊された。創刊後僅か3週間で台湾総督府により官報として使用されるようになり、毎年4,800円の公的補助を受けるようになった。その後、﹃台湾日報﹄が第2代台湾総督の桂太郎の支援の下、桂と同郷︵長州︶の民間人により創刊された。総督府による年間25,000円の公的補助を受けるようになった。かくして台湾で二大政府系新聞が登場すると思われたが、両紙は既得権益を巡る対立に起因し、かつ両紙がそれぞれ薩摩系と長州系とみなされたことも加わり、激しい競争を開始した。政策面でも一方が賛成すれば、自動的にもう一方が反対する論調を繰り返し、両紙記者が市内で乱闘を行なうこともあった[2]。﹃台湾日日新報﹄発行[編集]
このような状況の下、第4代台湾総督児玉源太郎下で民政長官を務めた後藤新平︵いわゆる児玉・後藤政治︶は、上意下達と官民意思の疎通の手段を整備することが急務と感じ、両紙を速やかに統合しなければならないと考えた。後藤は、旧知の守屋善兵衛に指示し、両紙の買収をさせた。台湾の実業家賀田金三郎の仲介と出資を経て1898年︵明治31年︶5月1日﹃台湾日日新報﹄が創刊された[2]。また、新聞報道とは別に、総督が公布する行政や司法関係の命令を掲載する﹃府報﹄及び台北及び新竹で﹃州報﹄を発行した。﹃台湾日日新報﹄は総督府の支援を受け、日本統治時代の台湾で最大の新聞としての地位を確立し、﹃台湾新聞﹄や﹃台南新報﹄とともに三大新聞と呼ばれた。最盛期の発行部数は5万部を記録し、総計1万5800号あまりを発行した[1]。年 | 台湾日日新報 | 台湾新聞 | 台南新報 |
---|---|---|---|
1924年 | 18,970 | 9,961 | 15,026 |
1935年 | 49,952 | 30,000 | 25,386 |
1936年 | 53,517 | 51,880 | 36,761 |
1937年 | 58,040 | 31,000 | 37,744 |
1938年 | 59,201 | 31,100 | 38,065 |
1939年 | 68,392 | 12,348 | 40,185 |
1901年︵明治34年︶11月より、8面のうち2ページを中国語版とし、1905年︵明治38年︶7月からは、﹃漢文台湾日日新報﹄の名で4ページの独立した新聞を発行した。しかし、1911年︵明治44年︶には財政困難の理由により、日本語版の中に2ページの中国語版を付す姿に戻された。この中国語版も1937年︵昭和12年︶4月には、総督府の﹁皇民化﹂政策により廃止されることになった[1]。
﹃台湾日日新報﹄のその後[編集]
太平洋戦争の激化に伴う戦時報道統制により、1944年4月1日に総督府がこの当時の他の主要日刊紙である﹃興南新聞[注釈 1]﹄︵本社・台北︶、﹃台湾新聞﹄︵同・台中︶、﹃台湾日報[注釈 2]﹄︵同・台南︶、﹃高雄新報﹄︵同・高雄︶、﹃東台湾新聞﹄︵同・花蓮港︶の5紙と統合させ、﹃台湾新報﹄︵新︶とした[3]。この﹃台湾新報﹄︵新︶は、戦時下の厳しい紙事情にかかわらず、発行部数16万7000部であった[3]。太平洋戦争での日本の敗戦後は﹃台湾新報﹄︵新︶は国民政府により接収され、﹃台湾新生報﹄と改称された[4]。-
台湾日日新報
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関連項目[編集]
- 目黒区立図書館 - 社長だった守屋善兵衛(1866年 - 1930年)の邸宅跡が目黒区に寄贈され、守屋記念館を開設。1952年には守屋図書館が開館した。区立図書館には善兵衛が残した書籍や台湾日日新報が所蔵されている[5]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 呉密察監修、日本語版翻訳横澤泰夫「台湾史小事典改定増補版」中国書店(2010年)150ページ
- 李佩蓉「日本統治時代初期の台湾における漢字新聞の研究『漢文台湾日日新報』(1905)の創刊経緯とその背景を中心に」日本マス・コミュニケーション・2014年度春季研究発表会・研究発表論文(2014年)
- 藤井省三「現代中国文化探検-四つの都市の物語-」岩波新書(1999年)
- 若林正丈「矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』精読」岩波書店(2001年)