呉大澂
呉 大澂︵ご だいちょう、Wú Dàchéng、1835年 - 1902年︶。本来の名は﹁大淳﹂であって、のちに清の同治帝の名の載淳を避諱して﹁大澂﹂に改めた。字は止敬または清卿、号は恒軒または愙斎。清末の金石学者、書画家。
人物[編集]
江蘇省呉県︵現在の蘇州︶出身。1868年に進士となり、翰林院編修、河北道、太僕寺卿、左副都御史を歴任した。1885年、吉林省に派遣されてロシアとの国境問題を処理した。1886年、広東巡撫に抜擢された。1888年、河南山東河道総督に任命され、黄河の治水にあたった。1892年、湖南巡撫となった。日清戦争時には自ら請うて湘軍を率いて戦いに出たが、海城で敗れた。 画は山水・花卉を善くした。書は若い時に陳碩甫に篆書を学び、李陽冰に書法が酷似していた。その後楊沂孫の影響を受け、金文と小篆を結合させ、一家をなした。著作[編集]
- 『愙斎集古録』
- 『古字説』
- 『権衡度量考』
- 『恒軒所見所蔵吉金録』
関連項目[編集]
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