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和帝︵わてい︶は、後漢の第4代皇帝。章帝の四男。生母は梁貴人。平原懐王劉勝・殤帝の父。
皇帝に即位[編集]
建初4年︵79年︶に章帝の四男として生まれるが、生母の梁貴人は宮廷内の争いの中で竇氏一族に殺害されていた。その後建初7年︵82年︶に皇太子に立てられ、章和2年︵88年︶に皇帝に即位する。当初は幼少のため養母の竇太后とその兄の竇憲ら竇氏一族の専横を許していたが、成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。この動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。
和帝が密謀の相談役に選んだのは宦官の鄭衆であった。彼を用いたのは、宦官ゆえに密謀を行うに都合がよいことと、鄭衆自身が皇帝に対する忠誠心の厚い、明晰で行動力のある人物だったからである。永元4年︵92年︶、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。これにより和帝は竇氏一族から政治の実権を取り戻すことに成功した。
宦官の台頭[編集]
鄭衆はこの功績により鄲郷侯に封じられ、大長秋の官を授けられた。和帝はその後も鄭衆を信任し続けたため、これ以後宦官が政治に深く関わるようになった。鄭衆自身は政治的には確かに有能で、しかも私心のない人物であったから、彼が政治に参与していた間は問題が表面化することはなかったが、それ以降の宦官の多くは、政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、彼らの跳梁により政治の腐敗が深刻化した。
また和帝が若くして死去すると、幼帝の補佐として和帝の皇后である鄧氏の一族が外戚として政治の実権を握るなど、外戚勢力も復活した。以後の後漢でも幼帝が続き、その度ごとに外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。
外征面は後漢で最も栄え、西域では永元6年︵94年︶の時点でその50余国が後漢に従うほどになった。これは西域都護の班超個人の力量に拠るところが大きく、班超が中央に召喚された後は後漢の西域における影響力は急速に衰えた。匈奴との戦いも匈奴の内紛に助けられ有利に進めた。
文化面では、班固・班昭兄妹による﹃漢書﹄の編纂︵永元4年︵92年︶の班固の死後、班昭が完成︶、永元17年︵105年︶の蔡倫による製紙法の改良が挙げられる。
- 正室:陰皇后(廃) - 陰識の曾孫娘
- 継室:鄧綏(和熹皇后) - 鄧禹の子の鄧訓の娘
- 側室:周貴人
- 側室:馮貴人
- 生母不詳の子女
- 長男:平原懐王 劉勝
- 次男:劉隆(殤帝) - 第5代皇帝
- 長女:修武公主 劉保
- 次女:共邑公主 劉成
- 三女:臨潁公主 劉利 - 即墨侯賈建(賈復の曾孫で、賈宗の子の賈参の子)にとついだ
- 四女:聞喜公主 劉興
参考資料[編集]