垓下の戦い
(四面楚歌から転送)
垓下の戦い | |
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戦争:楚漢戦争 | |
年月日:紀元前202年12月 | |
場所:垓下 | |
結果:漢の勝利 | |
交戦勢力 | |
漢 | 楚 |
指導者・指揮官 | |
劉邦 韓信 孔藂 陳賀 |
項羽 |
戦力 | |
400,000(韓信軍は300,000) | 100,000 |
垓下の戦い︵がいかのたたかい︶は、中国楚漢戦争期の紀元前202年に項羽の楚軍と劉邦の漢軍との間の垓下︵現在の安徽省宿州市霊璧県︶を中心に行われた戦い。この戦いで項羽が死んだことによって劉邦の勝利が完全に決定し、楚漢戦争が終結した。
四面楚 歌︵
形勢利あらずと悟った項羽は、別れの宴席を設けた。項羽には虞美人という愛妾がおり、また騅︵ 惜しみ、項羽は自らの悲憤を詩に読んだ︵垓下の歌︶。
力拔山兮 氣蓋世 ︵力は山を抜き 気は世を蓋う︶
時不利兮 騅不逝 ︵時利あらず 騅逝かず︶
騅不逝兮 可奈何 ︵騅逝かざるを 奈何すべき︶
虞兮虞兮 奈若何 ︵虞や虞や 汝を奈何せん︶
虞美人もこれに唱和し、項羽は涙を流し、臣下の者たちも全て涙を流した。
宴が終わると、項羽は夜を突いて残る八百余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。漢軍は夜明け頃にこれに気がつき、灌嬰が五千騎の兵を率いてこれを追った。八百の兵は次第に数を減らし、東城︵現在の安徽省滁州市定遠県の南東︶に辿りついたときには項羽に従う者わずか二十八騎になっていた。
ここで数千の漢軍に追い付かれた項羽は、配下の者に﹁ここで私が滅びるのは天が私を滅ぼそうとするからで、私が弱いからではない。これから漢軍の中に入ってこれを破り、それを諸君に知らしめよう﹂と述べ、二十八騎を七騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んでいった。項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士八・九十人を殺した。配下が再び集結すると脱落したのはわずか二人だけであった。配下の者は項羽の言った通りだと深く感じ入った。
項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場︵現在の安徽省馬鞍山市和県烏江鎮︶に至った。ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。烏江の亭長︵宿場役人︶は項羽に﹁江東は小さいですが、土地は方千里、人口も数十万おります。この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることはできません﹂と告げた。
しかし、項羽は笑ってこれを断り、﹁昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。江東の者たちが再び私を王にすると言ってくれても何の面目があって彼らに会うことが出来るだろうか﹂と答えて亭長に騅を与え、部下も全て下馬させて、漢軍の中へ突撃した。項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、﹁漢は私の首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前にひとつ手柄をやろう﹂と言い、自ら首をはねて死んだ。項羽の遺体に恩賞が掛けられていたため、周囲にいた漢軍の兵士たちは項羽の遺体を巡って味方同士で殺し合いを起こしたほどであった。結局遺体は5つに分かれ、呂馬童を含む5名それぞれに5等分された領地が渡された後に劉邦は項羽を手厚く葬った。
項羽の死によって約5年続いた楚漢戦争は終結し、劉邦は天下を統一して前後約400年続く漢王朝の基を開くのである。