坂本紅蓮洞
坂本 紅蓮洞︵さかもと ぐれんどう、1866年︵慶応2年︶9月?日 - 1925年︵大正14年︶12月16日[1]︶は、明治・大正期の文芸評論家、新聞記者、放浪生活者。本名は易徳。肩書きは﹁奇人﹂[2]。のらりくらりと放浪生活に身をやつし、酒に酔っては毒舌を弄し、窮乏のうちに死んだ﹁文壇名物男﹂であった[1]。
経歴[編集]
武蔵国江戸生まれ。旧小田原藩士の家系に生まれる[3]。 慶應義塾大学に学ぶ。同期に福澤桃介がいた[1]。明治21年︵1888年︶、部理財科を優秀な成績で卒業、その後、明治23年︵1890年︶に大学部の創設を期に文学科に入るが、女義太夫の竹本綾之助に夢中になり、勉学を疎かにしたために落第[3]。立教中学の代用教員を務めるなど、﹁数学の天才﹂ぶりを発揮し色々な学校で教えるが、その授業が苛烈だったため数々の学校を追われ[4]、新聞記者に転向。国木田独歩率いる近事画報社に入り浸り、﹃美観画報﹄の編集者となる。 明治36年︵1903年︶に与謝野鉄幹が主催する新詩社に入り、機関紙﹃明星﹄に﹁文芸家の表彰に就いて﹂を寄稿。帝国芸術院をイメージした芸位令の制定を最も早い時期で唱えるなどした[5]。このころ、鉄幹より﹁紅蓮洞﹂の名をもらったという[4]。歌人の吉井勇を誘い出して飲み歩くようになり、数々の奇行が始まり、文壇の名物男として知れ渡るようになる。﹃明星﹄にはさらに﹁江東町人言﹂︵明治39︶を発表。その他の作品に﹁文壇立志篇﹂などがある[1]。 北村透谷を連れて、小学校時代の事務員で﹁月謝の先生﹂と呼ばれていた磯田老人の経営する撃剣道場へ入門。読売新聞に40回に渡り、﹁文壇垣硯き﹂を連載。三田文学会では永井荷風と仲が悪かったという。武林無想庵をはじめ、様々な文士の家の居候となり[4]、また、長谷川時雨は甥の仁︵当時小学生︶の算術家庭教師に紅蓮洞をつけた[6]。 重体に陥った紅蓮洞を支援するため、大正14年︵1925年︶8月に吉井勇、長田秀雄らが発起人となって[7]、中央新聞社内[8]に紅蓮洞の病気治療基金を募る﹁紅蓮洞後援会﹂が起こされ[9]、岡本綺堂や坪内逍遥など文士たちが募金。しかしその甲斐もなく、12月16日に没。 守田有秋は坂本紅蓮洞、内村鑑三、堺利彦を﹁わが三尊﹂として書き、また、与謝野晶子は﹁坂本紅蓮洞さん﹂という詩で﹁わが知れる芸術家の集まりて、女と酒とのある処、ぐれんどうの命必ず暴風の如き来りて罵り合う﹂と詠んでいる。著書[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 日本アナキズム運動人名事典編集委員会編『日本アナキズム運動人名事典』、ぱる出版、2004年5月 ISBN 482720098X
- 『20世紀ニッポン異能・偉才100人』、朝日新聞社、1993年11月
- 佐々木光「慶應義塾を愛した紅蓮洞・坂本易徳--「福澤関係文書」でたどる、文壇名物男 その若き三田時代」、三田評論、2010年4月