大久保一丘
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大久保 一丘︵おおくぼ いっきゅう、生年不明 - 安政6年11月10日︵1859年12月3日︶︶は、日本の江戸時代後期から末期にかけて活動した絵師。諱は好古、好徳。字は敏夫。通称は惣次郎。別号に伯隣、王江蘋。
遠江国横須賀藩の御用絵師として活躍した地方画家であるが、20点ほど残る﹁真人図﹂と称される洋風人物画で後世の注目を集めた。
略歴[編集]
生まれた歳は不明だが、天明年間頃だと推測される。作画期は文化から安政年間、横須賀藩︵現在の静岡県掛川市︶主・西尾忠善に召され、お抱え絵師として活躍した。遺品の大半は円山・四条派を基本とし、中には狩野派や大和絵、或いは琳派風の作品もある。しかし一方で、司馬江漢の﹃吉野紀行﹄に一丘の名が記されていることから、江漢に学んだ形跡が見られ、桂川甫周門下の蘭学者・高森観好と交流、一時養子になっている。安政6年11月10日死去。戒名は等円院一丘露覚居士。享年54とある[1]が、そうすると文化4年︵1807年︶の年記がある作品が残ることと矛盾する。これは息子の大久保一岳︵一世︶の没年と混同したためだと見られる。墓は木挽町三丁目の天徳寺中寶瑞院とある[1]が、早くから無縁仏扱いを受けたらしく現在墓石は残っていない。弟子・子孫[編集]
弟子に町野笠澤など。なお息子とされる大久保一岳︵一世︶も父に学び、少数だが﹁真人図﹂︵神戸市立博物館蔵︶や﹁蘭図﹂など洋風の遺作が残る。また一岳︵一世︶の弟とも子とも言われる大久保一岳︵二世︶も、﹃諸侯登営之図写生﹄︵安政6年︵1859年︶全6巻、国立国会図書館蔵︶のような作品があり、文久元年︵1861年︶版﹃江戸現在 公益諸家人名録﹄に名前が掲載されている。後に柴田是真に学んで人物画を良くし、第一回鑑画会協会や明治17年︵1884年︶の第二回内国絵画共進会にも出品、明治21年には﹃諸鳥写生図譜﹄を出版している。ただ、一岳︵二世︶という絵師は実際にはおらず、一丘の息子・一岳は、弘化2年︵1845年︶に生まれ明治24年︵1891年︶に亡くなっており[2]、明治6年︵1873年︶の﹃説教大意﹄など神道関連の本を出版している、という指摘もある[3]。更に、一丘の娘・一景こと石本藤衛女も﹃公益諸家人名録﹄に記載があり、書家あるいは絵師であったことがわかるが、現在その作品は知られていない。真人図[編集]
「真人図」以外の作品[編集]
- 雲龍図 (三熊野神社) 絵馬墨画 文化4年(1807年) 静岡県指定有形文化財(絵画)同年の年紀をもつ「馬図」絵馬は静岡県大須賀町王子権現にもある。
- 富士図 (三熊野神社) 絵馬 文化8年(1811年) 静岡県指定有形文化財(絵画)
- 神馬図 (井伊谷宮) 紙本淡彩 弘化3年(1846年) 浜松市指定有形文化財
- 富嶽明暁図 (静岡県立美術館) 絹本着色金泥 嘉永年間(1848-54年)頃
- 弁慶勧進図 (三熊野神社) 絵馬 安政6年(1859年) 静岡県指定有形文化財(絵画)
- 鶴図 (掛川市・蓮舟寺) 4面 掛川市指定有形文化財(絵画)
- 四季花鳥図(掛川城二の丸美術館) 紙本著色 4幅対
- 葵紋図(武士図) (掛川・愛宕下美術館) 紙本著色