大報壇
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大報壇 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 대보단 |
漢字: | 大報壇 |
発音: | テーボダン |
日本語読み: | だいほうだん |
大報壇︵だいほうだん、朝鮮語: 대보단︶は、1644年に明が滅んでから60年後の1704年に、李氏朝鮮が、明の皇帝を祀るために昌徳宮に建てた祭壇である。最初は万暦帝︵神宗︶だけを祀っていたが、1749年に明の最初の皇帝朱元璋︵太祖、洪武帝︶と明の最後の皇帝崇禎帝︵毅宗︶も合祀した。ソウルに設けられた大報壇は、朝鮮国王自ら出向いて祭祀をおこなっていた[1]。
概要[編集]
当時、朝鮮は清から冊封されていたが、精神的には﹁崇明反清﹂の意識が強く、清を﹁オランケ﹂︵野蛮人︶だといって侮蔑し、朝鮮こそが明が滅んだ後の中華を受け継ぐ﹁小中華﹂だとしていた。神宗は文禄・慶長の役で援軍を送って朝鮮を救ってくれた﹁再造之恩﹂があり、太祖は﹁朝鮮﹂という国の名前を決めてくれた﹁大造之恩﹂があり、毅宗は丙子の乱の時に援軍を送ってくれ恩があるとして、毎年、国王自らが祭祀を行った。祭祀は1894年まで行われ続けた。大報壇は昌徳宮の北西部にあったが、韓国併合後の1921年に、大報壇を壊して、その場所に新璿源殿︵朝鮮語: 신선원전︶が建てられた。 李氏朝鮮が滅亡した明の皇帝を祀った場所としては、他に万東廟や朝宗巖大統廟などがある。﹃中央日報﹄はこれらは朝鮮の変革の機会を逃し続け、慕華思想に浸って退行を繰り返した史実の証拠だと指摘している[2]。評価[編集]
ケ・スンボム︵西江大学︶は、著書﹃정지된 시간﹄︵停止した時間︶で、大報壇の祭礼は朝鮮が﹁近代の敷居﹂を越えられないようにした﹁意識の足鎖﹂だったとしている[3]。脚注[編集]
- ^ 山内弘一 (2019年9月18日). “朝鮮儒教思想から見た韓国の対日観 ―日韓相互不理解の淵源を探る―”. 平和政策研究所. オリジナルの2021年12月6日時点におけるアーカイブ。
- ^ “韓経:【コラム】後期朝鮮時代に回帰するのか=韓国”. 中央日報. (2018年11月9日). オリジナルの2022年6月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ “'근대 조선' 발목 잡은 대보단(大報壇)을 아시나요”. 朝鮮日報. (2011年7月13日). オリジナルの2015年3月6日時点におけるアーカイブ。