大川功
おおかわ いさお 大川 功 | |
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生誕 | 1926年5月19日 |
死没 | 2001年3月16日(74歳没) |
国籍 | 日本 大阪府大阪市 |
職業 | 実業家 |
大川 功︵おおかわ いさお、1926年5月19日 - 2001年3月16日︶は、日本の実業家。システムインテグレーターのCSKの創業者であり、ゲーム会社セガの会長および社長を歴任した。
投資家・篤志家の一面も持っており、1998年11月に個人資産2700万米ドルをマサチューセッツ工科大学︵MIT︶に寄付したことから、MITが﹁Okawa Center for Future Children﹂設立を発表。亡くなる直前の2001年1月には、セガが家庭用ゲーム機事業の撤退により生じた損失額を埋めるため総額約850億円相当の個人資産をセガに譲渡し、セガの倒産を回避した[1][2]。
大川の死後、親交のあった椎名武雄や増田宗昭らが中心となって、大川の遺志に基づきベンチャー企業の振興発展を行う﹁一般財団法人 大川ドリーム基金﹂が2011年に設立された[2]。
略歴[編集]
●1926年5月19日 大阪船場で婦人子供服地の卸店﹁大川商店﹂を営む両親の次男として誕生。本籍地 大阪府大阪市。 ●1945年3月 大阪府立旧制今宮中学を卒業。 ●1948年3月 早稲田大学専門部工科卒業。肺結核に加え盲腸手術の失敗による腸漏を併発し、7年半にわたり病床に臥す。快復後、兄の会計事務所手伝いを経て、タクシー会社を共同経営し成功するも売却。 ●1962年 日本IBMの勧めでパンチカードシステム・PCSの講習に参加。情報産業の予兆を知る。 ●1968年10月 大阪住友生命淀屋橋ビルに﹁コンピュータサービス株式会社﹂を創立。一代でどこまで挑戦できるかにこだわり、未成熟の暖簾のない分野、商売人がいない世界に挑戦する。 ●1980年9月 情報サービス業界として初めて店頭公開。 ●1982年6月 同社は日本の情報サービス業界の先頭を切って、システムインテグレータ企業として初めて東京証券取引所市場第二部に株式上場する。 ●1984年4月 株式会社セガ・エンタープライゼスへ資本参加し取締役会長就任。 ●1985年3月 同社は東京証券取引所市場第一部に指定替えとなる。 ●1986年8月22日5億円を寄付し、財団法人 大川情報通信基金を設立、同年11月13日に初代理事長となる。 ●1987年1月 コンピュータサービス株式会社の社名を株式会社CSKに変更し、商号も株式会社シーエスケイに変更する。 ●1993年6月8日30億円を財団法人 大川情報通信基金に寄付。 ●1995年2月24日 ベルギーのブリュッセルで開催された先進国7ヵ国情報通信閣僚会議﹁情報通信G7サミット﹂に民間代表として出席。子供の声を聞く﹁ジュニアサミット﹂を提唱。同年11月、東京にて﹁ジュニアサミット'95﹂が開催される。 ●1996年5月 社団法人ニュービジネス協議会会長就任︵~1998年5月︶。 ●1998年11月 個人資産2700万USD(当時の為替レート1ドル=130.90円換算で約35億3430万円)をマサチューセッツ工科大学︵MIT︶に寄付したことから、MITが﹁Okawa Center for Future Children﹂︵MIT大川センター︶設立を発表。 ●1999年10月 CSK子会社として株式会社イサオを設立し、それまでセガがドリームキャスト向けに提供していたインターネットサービスプロバイダー﹁セガプロバイダ﹂を﹁isao.net︵イサオドットネット︶﹂として承継する形で事業開始。 ●2000年6月 セガ代表取締役会長︵1997年~︶兼社長に就任。 ●2001年1月 家庭用ゲーム機分野からの撤退を決めた株式会社セガに個人資産約850億円を寄付。﹁事業で得たお金は事業に返す﹂という信念のもとの行動である。 ●2001年3月16日15時47分、東京医科大学病院にて心不全のため逝去︵74歳︶。関連項目[編集]
●大川賞 ●大川出版賞関連書籍[編集]
●大川功 人間の魅力 大川功記念会編著︵2011年、アスペクト︶ ISBN 978-4757219137 ●ベンチャーの父 大川功 西和彦著︵2011年、アゴラブックス︶ ISBN 978-4905499015 ●2003―飯野賢治対談集 飯野賢治著︵1999年、ソニーマガジンズ︶ ISBN 978-4789713597 ●甘ったれるな!ニュービジネス協議会/ニュービジネス研究所編︵1997年、日経BP社︶ ISBN 978-4822240936 ●予兆 情報世紀をひらく 大川功著︵1996年、東洋経済新報社︶ ISBN 978-4492552759レコード・CD[編集]
大の歌好きで度々LP(1982年)、CDアルバム(1980年代から2001年まで毎年)を発表していた。収録曲は中村八大作曲、デューク・エイセスの歌唱による社歌、音頭︵﹃CSKズッコケ音頭﹄︶が中心だが、大川本人歌唱による﹁第二の社歌﹂とされていた﹃東京ラプソディ﹄なども収録されていた[3]。脚注[編集]
- ^ 谷島 宣之 (2001年3月19日). “【大川功氏追悼特別記事】「人生すべて経営」をやり抜く”. 日経BP社. 2017年6月14日閲覧。
- ^ a b “「起業家精神を取り戻せ」大川功氏の遺志継ぐ基金始動”. 日本経済新聞社 (2011年2月17日). 2017年6月14日閲覧。
- ^ 『レコードと暮らし』田口史人 夏葉社 2015年 p146-147