夷堅志
『夷堅志』(いけんし)は、中国南宋の洪邁(1123年 - 1202年)が編纂した志怪小説集である。1198年(慶元4年)頃の成立、206巻。
撰者・洪邁[編集]
詳細は「洪邁」を参照
字は景廬、容斎先生または野処と号する。饒州鄱陽県の出身。南宋の政治家の洪皓︵西遼の耶律大石などを記した﹃松漠紀聞﹄の著者︶の子で、洪适・洪遵の弟に当たる。紹興15年︵1145年︶に科挙の博学宏詞科に及第、両浙転運司幹弁公事となり、左司員外郎に昇任した。しかし、金朝との講和論を主張する宰相の秦檜に徹底して反対したので、隆興元年︵1163年︶に左遷され、泉州・吉州などの知州を歴任したが、地方官としての名声が高く、中央に復帰して、起居郎・中書舎人兼侍読、直学士院を経た後、淳熙13年︵1186年︶には翰林学士に昇進し、監修国史を兼ね、四朝国史︵神宗・哲宗・徽宗・欽宗︶を編纂した。その後、端明殿学士となったが、官を辞した後に没した。その経歴の間に見聞したという怪事や異事などを取りまとめ、書き記したのが本書である。また、その随筆である﹃容斎随筆﹄も名高い。
伝記資料[編集]
●﹃宋史﹄巻373構成[編集]
宋代原本︵佚本︶ (一)志甲-癸 200巻 (二)支甲-支癸 100巻 (三)三甲-癸 100巻 (四)四甲・四乙 20巻 張元済本 (一)甲乙丙丁志 80巻 (二)支甲乙丙丁戊庚癸 70巻 (三)己辛壬志 30巻 (四)補 25巻 (五)再補 1巻 書名の﹁夷堅﹂は、﹃列子﹄﹁湯問﹂中の﹁大禹は行きて之を見、伯益は知りて之を名づけ、夷堅は聞きて之を志す﹂から採ったものである。 内容は多方面にわたっており、神仙・鬼怪、風俗習慣に始まり、宋人の異聞・佚事、詩詞・歌賦、医薬の処方にまで及んでいる。小説類に属する書物ではあるが、本書中からは、官撰の史書からは読み取れない類いの民衆生活の実態が、生き生きと活写されており、宋代社会史研究上の重要な文献である。 体裁は、個々の題名の下に本文を記しており、10数事前後で1巻の体裁となっており、各本文の末尾には、何某からの伝聞等と事項の出処を明記している。そこからは、当時の士人の交際範囲を垣間見ることができる。また、仏教や道教を含めた当時の民間信仰や、民衆の心象世界を解明する端緒ともなり得るため、民俗学・宗教史上の資料としても貴重である。テキスト[編集]
宋代の書籍目録である﹃直斎書録解題﹄には、本書は全420巻と記されているが、後に散佚し、﹃宋史﹄﹁芸文志﹂では、140巻まで減少しており、﹃四庫全書総目提要﹄では僅かに50巻を載せるのみであった。 現存するテキストで原本に最も近いとされるのは、1927年に涵芬楼出版の張元済﹃新校輯補夷堅志﹄206巻である。 1981年、中華書局出版の評点本は、涵芬楼本を底本としたものである。その上で、﹃永楽大典﹄から抽出した佚文28篇を巻末に附している。参考文献[編集]
- 澤田瑞穂「宋代の神呪信仰 : 夷堅志の説話を中心として」(『中国の呪法』所収 平河出版社,修訂1990年)ISBN 4892030864
- 竹田晃、檜垣馨二訳註「緑珠伝・楊太真外伝・夷堅志ほか」(『中国古典小説選 7巻』明治書院,2007年)ISBN 9784625664014