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孝儀純皇后︵こうぎじゅんこうごう、満州語:ᡥᡳᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ
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ᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ 転写‥hiyoošungga yongsonggo yongkiyangga hūwangheo、雍正5年9月9日︵1727年10月23日︶ - 乾隆40年1月29日︵1775年2月28日︶︶は、清の乾隆帝の側妃。満洲正黄旗包衣︵内務府所属の漢人︶の出身。姓は魏氏。魏清泰の娘。後に鑲黄旗に抬旗され、満洲姓﹁ウェイギャ︵魏佳︶氏︵Weigiya hala︶﹂が授けられた。
内務府に選抜されて宮女として後宮に入り、最初の皇后である孝賢純皇后から教育を受ける。乾隆10年︵1745年︶、18歳で魏貴人に封ぜられた。同年に令嬪に進封ぜられた。乾隆13年︵1748年︶に令妃となった。乾隆21年︵1756年︶に固倫和静公主を出産する。乾隆22年︵1757年︶に十四男永璐︵早世︶を出産する。乾隆23年︵1758年︶に和碩和恪公主を出産する。乾隆24年︵1759年︶に令貴妃となった。乾隆25年︵1760年︶に十五男永琰︵後の嘉慶帝︶を出産する。乾隆27年︵1762年︶に十六男︵早世︶を出産する。乾隆31年︵1766年︶に十七男慶親王永璘を出産する。
乾隆帝の妃のうちで最も多い4男2女をもうけ、2番目の皇后ナラ氏が廃位された後、皇貴妃に進んだ。乾隆40年︵1775年︶に死去した。裕陵に葬された。昔仕えていた孝賢純皇后と仲が良かったといわれる。孝賢純皇后と一緒に裕陵に葬したことから、乾隆帝は﹁旧日玉成侶,依然身傍陪︵あなたのおかげで私の愛妃になったあの人は、今もあなたのそばにいます︶﹂と詠んだ。令懿皇貴妃と諡されるが、その後十五子永琰が皇太子に立てられたことで、その生母として孝儀皇后と追贈された。
登場作品[編集]
●還珠姫 〜プリンセスのつくりかた〜︵1998年、中国、演‥娟子︶
●如懿伝 〜紫禁城に散る宿命の王妃〜︵2017年、中国、演‥リー・チュン︶
●瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜︵2018年、中国、演‥ウー・ジンイェン︶
伝記資料[編集]
﹃清史稿﹄