孝恭仁皇后
孝恭仁皇后︵こうきょうじんこうごう、満州語‥hiyoošungga gungnecuke gosin hūwangheo、1660年 - 1723年︶は、清の康熙帝の側室で、雍正帝の母。満洲正黄旗包衣佐領の出身[1]。姓はウヤ︵烏雅︶氏︵Uya hala︶。
孝恭仁皇后ウヤ氏
内務府包衣・膳房総領の額森︵エセン︶の孫娘。父の魏武︵ウェイウ︶は護軍参領となった。康熙12年︵1673年︶、ウヤ氏は後宮に入って常在︵身分の低い妃嬪︶となった。胤禛︵後の雍正帝︶など多くの子供を産み、徳貴人、徳嬪に進み、徳妃にいたった。
雍正帝が即位すると、皇太后に立てられたが、雍正元年︵1723年︶に死去した。
生涯[編集]
逸話[編集]
﹁九子奪嫡﹂と呼ばれる政争で、ウヤ氏の2人の息子はしばしば諍いを起こした。ウヤ氏は年少の息子の胤禵を最も愛していたので、年長の胤禛が即位すると意外に感じ、大いに不満を覚えた。ウヤ氏は自殺をほのめかし、皇太后の称号を一度拒否したという。子女[編集]
登場作品[編集]
脚注[編集]
- ^ 雍正帝により正黄旗に抬旗された。
伝記資料[編集]
- 『清史稿』巻214
- 『清憲宗実録』