安藤橡面坊
安藤 橡面坊︵あんどう とちめんぼう、1869年9月21日︵明治2年8月16日︶ - 1914年︵大正3年︶9月25日︶は、岡山県出身の俳人。本名錬三郎。別号に影人、橡庵など。小田郡新賀︵現笠岡市︶生。1897年に大阪毎日新聞社に入社。校正部長を務めた[1]。俳句ははじめ高浜虚子選の﹃国民新聞﹄に投句、のち正岡子規選の﹃日本﹄紙に投句。1901年、初代選者の桜井芳水の死を受けて﹁毎日唫壇︵ぎんだん︶﹂の二代目選者[2]。
子規の俳句革新運動に加わり関西俳壇を盛り立てる[2]。亀田小蛄主宰の糸瓜会の同人として活躍し﹁車百合﹂﹁宝船﹂﹁アラレ﹂の選者も務めた[1][3]。﹁鴨川は千鳥に交じる落ち葉かな﹂﹁草花を集めて地蔵祭かな﹂など、日本派風の温厚な写生句を作った[2][4] 。子規が没してのちは河東碧梧桐選の﹃日本﹄に投句し、新傾向俳句運動に共鳴した[2]。 1914年9月25日死去、46歳。1921年に小蛄により遺句集﹃深山柴﹄が刊行されている。
日本派の俳人でもあった夏目漱石の小説﹃吾輩は猫である﹄に、作中人物の迷亭が﹁トチメンボー﹂なる料理を注文して給仕を困らせるというくだりがあるが、この﹁トチメンボー﹂は橡面坊を元にしたもの[4]。
著書[編集]
- 亀田小蛄編 『深山柴』 1921年、糸瓜社 ※2015年にふらんす堂から復刊