宮崎重次
宮崎 重次︵みやざき しげつぐ、天正8年︵1580年︶ - 正保元年2月14日︵1644年3月22日︶︶は、安土桃山時代から江戸時代にかけての旗本。徳川家康・徳川秀忠に仕えた。通称は庄次郎、半兵衛。父は宮崎泰重、母は佐々木正重の娘。
生涯[編集]
﹃寛政重修諸家譜﹄によれば、宮崎氏は日向国宮崎郡の藤原氏で、戦国時代に甲斐の武田氏に仕え、信濃国伊那郡座光寺村︵現・長野県飯田市︶を領した。祖父の宮崎泰景は武田氏滅亡後、徳川家康に仕え、関東移封に従い、武蔵国多摩郡車返村︵現・東京都府中市︶周辺に280石を拝領した。 慶長4年︵1599年︶11月、徳川家康に拝謁する。父の遺跡を継ぎ、後に徳川秀忠に仕え大番に列する。慶長5年︵1600年︶9月、関ヶ原の戦いの一環としておこなわれた、上田城攻めに参陣する。 慶長6年︵1601年︶、40石加増の上、信濃国伊那郡駒場︵現・下伊那郡阿智村︶に本領を移され、材木奉行を務める。 元和元年︵1615年︶の大坂夏の陣に出陣し、枚方方面にて敵に備える。 寛永4年︵1627年︶三河国・遠江国内にて代官を務める。 正保元年︵1644年︶2月14日に死去。法名は宗円。自ら建立した信濃国向関村︵現・阿智村︶宗円寺に葬られる。出典[編集]
- 『寛政重修諸家譜 巻1051』