尊寿院
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尊寿院︵そんじゅいん、? - 文禄4年11月4日︵1595年12月4日︶︶は、戦国時代末期から安土桃山時代の女性。大友氏第22代当主大友義統の正室。父は大友氏重臣・吉弘鑑理で、母は大友義鑑︵義統の祖父︶の娘︵宗麟の妹︶。高橋紹運は兄、吉弘統幸、立花宗茂は甥に当たる。菊姫という名の他に、洗礼名からジュスタ[1]とも呼ばれ、法名の尊寿院もそこからとられた。
略歴[編集]
義統との間に4人の子供を儲けるが、近親婚の子であり、元来病弱な女性であったという。 天正15年︵1587年︶、舅であり伯父である大友宗麟の命により、キリスト教に改宗して、洗礼名﹁ジュスタ﹂を授かる。この時に息子と2人の娘も受洗、嫡子義乗は﹁フルゼンシオ﹂、娘は﹁サビイナ﹂﹁マキシマ﹂という洗礼名を授かった。 文禄の役の時豊臣秀吉の命により上阪し、大坂城下の大友屋敷に入った。しかし文禄2年︵1593年︶、夫・義統︵当時﹁吉統﹂︶が改易されたことで大坂を追放され、夫の配所への同行も許されず、幼い子供3人を連れ、旧領の豊後国を供もなく放浪する悲惨な目にあった[2] 柳川城主となっていた立花宗茂︵左近︶の元に身を寄せることとし、筑後国下妻郡禅院村に屋敷を与えられたが、ほどなく文禄4年に死去した。 禁教令の前であったが、日蓮宗徒として葬られ、戒名は尊寿院殿日正大姉、墓所は尊寿寺︵福岡県みやま市︶。同寺は柳河領内最初の法華の寺。脚注[編集]
- ^ 大友宗麟の娘(長女)で、一条兼定、清田鎮忠の妻となった女性の洗礼名も同じく「ジュスタ」。いとこにあたる。
- ^ 次女・マキシマの経歴は大友宗麟の次女・テクラの娘「マセンシア」と混同される。また、「桑姬」という人物について、実には宗麟の長女・「ジュスタ」(一条兼定室のち清田鎮忠室)のことですが、義統の次女・「マキシマ」やテクラの娘・「マセンシア」や宗麟の長女・「ジュスタ」の娘・「マダレイナ」など「桑姬」として混同される。隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考
参考文献[編集]
- 国書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 系図綜覧. 第二』国書刊行会刊行書、1915年 。