小川貞一
小川 貞一︵おがわ ていいち、1882年︵明治15年︶1月19日[1][注 1] - 1943年︵昭和18年︶10月27日[2]︶は、大正から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・山崎。
経歴[編集]
鳥取県八橋郡赤崎宿︵赤崎村、東伯郡赤崎村、赤碕町を経て現琴浦町赤碕︶で山崎元一の長男として生まれ[1][3]、東伯郡倉吉町[4]︵現倉吉市河原町︶の小川貞四郎の養子となる[1][3]。1915年︵大正4年︶倉吉町会議員に就任したのを皮切りに、東伯郡会議員、鳥取県会議員などを歴任[2]。女子教育の振興に貢献し、鳥取県立倉吉高等女学校︵現鳥取県立倉吉西高等学校︶、鳥取県女子師範学校、鳥取高等農業学校の設立に尽力した[3]。 また、小川合名会社を設立して酒・醤油醸造業、製糸業を経営した[3]。ほか、山陰実業銀行、倉吉電気各取締役、奨恵銀行監査役、鳥取県信用組合連合会会長などを務めた[2]。 1924年︵大正13年︶鳥取県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年4月24日[5][6]から翌年9月28日まで在任した[2]。親族[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『鳥取県大百科事典』134頁では明治16年。