小永井五八郎
人物情報 | |
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別名 |
小永井 小舟(号)[1][3] 小永井 八郎[1] 小永井 岳(諱)[4] 小永井 君山(字)[1] 司馬 傭作[4] |
生誕 |
1829年[1][5] 下総国佐倉藩[1] |
死没 | 1888年12月10日(60歳没)[1][5] |
両親 | 父・平野重美 |
学問 | |
時代 | 幕末 - 明治時代[1] |
研究分野 | 儒学[1]、漢学[6] |
主要な作品 | 『無絃琴』[1]『亜行日記』『漢史一斑』など[4][6] |
影響を受けた人物 | 野田笛浦、古賀謹堂、羽倉簡堂[6] |
小永井 五八郎︵こながい ごはちろう、1829年︿文政12年﹀ - 1888年︿明治21年﹀12月10日[1][5]︶は、幕末の下総佐倉藩士・幕臣、明治初期の教育者[2]、儒学者[1]、漢学者[6]。号は君山または小舟[1][3]。
経歴[編集]
代々佐倉藩の老職を勤めた家の生まれであり[4]、父はその老職の1人である平野重美、母は佐治氏の出身であり、2人の間の末子として誕生した[4]。兄に平野知秋と彌五郎︵田中従吾軒︶あり[7]。 若い頃に遊学として江戸に出て儒学を学び、儒学者の野田笛浦、古賀謹堂、羽倉簡堂らの教えを受けた[4]。1858年︵安政5年︶に旗本である小永井藤左衛門の婿養子となり、小永井姓に改姓した[4]。 1860年︵万延元年︶咸臨丸が渡米した際、軍艦奉行・木村摂津守に従い軍艦操練所勤番公用方下役として参加。帰国後、同年の9月20日より大坂町奉行支配調役を勤め[4]、徒目付も勤めた[2]。また尾張侯にも招かれ、鷲津毅堂の後を継いで尾張明倫堂の督学にも就いた[8][9]。 明治維新の後は漢学者の川田甕江の勧めで、文部省に出仕した[4]。晩年は浅草新堀に住み、私塾﹁濠西塾﹂︵濠西精舎︶を創設。門下生を指導した[4]。 1888年︵明治21年︶12月10日、満60歳没[1]。墓所は東京都台東区の天王寺にある[4]。嗣子・解太郎は教員となり、大成中学校長[7]や韮山中学校初代校長などを務めた。主要な著書[編集]
- 『漢史一斑』
- 『清史略』
- 『無絃琴』
脚注[編集]
(一)^ abcdefghijklm上田他監修 2001, p. 7720
(二)^ abcd歴史読本 2007, pp. 46–47
(三)^ ab号は﹁小舟﹂との説もある[2]。
(四)^ abcdefghijk竹内他編 2010, p. 283
(五)^ abc1830年︵天保元年︶生、1889年没︵明治22年︶の説もある[2]。
(六)^ abcd石山他編 1996, p. 170
(七)^ ab文倉平次郎﹃幕末軍艦咸臨丸﹄赤松範一、1938年、721頁。NDLJP:1231594/374。
(八)^ 鬼頭有一﹁尾張藩黌明倫堂年表﹂﹃東洋文化 : 東洋文化振興会々報﹄第26巻、東洋文化振興会、1983年11月、34-77頁、ISSN 0289-2162、NDLJP:7912982/21。
(九)^ ﹃下谷叢話﹄‥新字新仮名 - 青空文庫