小西増太郎
小西 増太郎︵こにし ますたろう、1862年5月2日︵文久2年4月4日︶- 1940年︵昭和15年︶2月10日︶は、日本のロシア研究者、翻訳家。
経歴[編集]
備前国︵岡山県︶出身。小西行長の流れをくむ家の出。ニコライ神学校卒。1886年︵明治19年︶西徳二郎に随行してロシアのキエフ神学大学に学び、のちモスクワ神学大学でグロート教授に心理学を学び、その紹介でトルストイと共同で﹁老子﹂のロシア語訳をおこなう。モスクワでは下宿がスターリンの隣室で親交があった。 1893年︵明治26年︶帰国し、ニコライ神学校の教授。1895年︵明治28年︶尾崎紅葉と共同でトルストイの﹁クロイツェル・ソナタ﹂を﹁名曲クレーツエロワ﹂として訳し、﹃国民之友﹄に連載した。のち京都帝国大学などでロシア語を教えた[1]。墓所は多磨霊園。親族[編集]
長男は野球選手の小西得郎、次男の小西弓次郎は、倉田百三の妹・艶子と結婚した[2]。著書[編集]
- 『実歴露国一班』(警醒社) 1896
- 『露国文法大意』(北海露語学校) 1897
- 『聖地パレスチナ』(警醒社書店) 1913
- 『トルストイを語る』(岩波書店) 1936
- 『トルストイを語る いかに生きるか』(太田健一監修、万葉舎) 2010
翻訳[編集]
- 『トルストイ宗教小説集』(警醒社書店) 1913
- 『生きる道』(レフ・トルストーイ、章華社) 1936
- 『幸福への道』(トルストイ、章華社) 1936
ロシア語訳[編集]
脚注[編集]
- ^ 『日本近代文学大辞典』講談社、1984
- ^ 杉井六郎「小西増太郎覚書(一)」『社会科学』第27巻、同志社大学人文科学研究所、1981年2月、111-155頁、CRID 1390853649841659264、doi:10.14988/pa.2017.0000007874、ISSN 0419-6759。