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●父の転勤に伴い、兵庫県宝塚市に移転宝塚市立宝梅中学校転入、大阪市の北陽高等学校入学、山岳部に入部し、3年次には主将を務める。
●北陽高校卒業後、山梨学院大学に入学するが、3ヶ月で退学。
●1982年(昭和57年)、20歳で、中国・パミール高原にあるコルジェネフスカヤ峰(7,105m)とコミュニズム峰(7,495m)に連続登頂を果たす。続いて同年10月10日、シシャパンマ(8,027m)にも無酸素登頂、パートナーは駒宮博男。
●1984年(昭和59年)、ナンガ・パルバット︵8,125m︶、ディアミール壁ルートに挑戦するも7,600mで敗退。
●1985年(昭和60年)、マッキンリー(6,194m)登頂。
●1986年(昭和61年)、ケニア山︵ケニア︶、キリマンジャロ︵タンザニア︶登頂。映画﹁植村直己物語﹂の撮影に参加する。
●1987年(昭和62年)、レーニン峰︵7,134m︶登頂。
●1989年(平成元年)、ハン・テングリ(7,010m)日本人初登頂。
●1990年︵平成2年︶1月、群馬県ミヤマ山岳会・桐生山岳会の混成メンバー︵佐藤光由、弥野光一ら︶で剱岳八つ峰ルートに挑戦するが、異常降雪により遭難。ヘリにより救助される。
●1991年(平成3年)7月30日、ブロード・ピーク(8,051m)に無酸素登頂、パートナーは山野井泰史、長尾妙子ら。
●1993年(平成5年)7月31日、ガッシャーブルムII峰(8,035m)に無酸素登頂、パートナーは山野井泰史、長尾妙子、戸高雅史。
●1995年(平成7年)5月9日、チョ・オユー(8,201m)に無酸素登頂。
●10月、カンチェンジュンガ︵8,586m︶の無酸素登頂に挑み8,400mまで到達するもメンバーの凍傷により登高を断念し敗退。メンバーは戸高雅史、棚橋靖、松原尚之。
●11月、ゴーキョ峰ツアー客大量遭難事故の救助活動に従事。
●1996年(平成8年︶10月、エベレスト︵8,848m︶の無酸素登頂に挑むが7500m地点で雪崩に遭い敗退。最大のザイルパートナーだったロブサン・ザンブーを失う。
●1997年(平成9年)、ダウラギリI峰(8,167m)、ガッシャーブルムI峰(8,068m)に無酸素登頂。
●1998年(平成10年)、アマ・ダブラム︵6,812m︶にガイドとして登頂。
●1999年(平成11年)、GTホーキンス︵インターナショナルトレーディングコーポレーション︶のイメージキャラクターを務める。
●2001年(平成13年)、テレビ朝日﹃ネイチャリングスペシャル 西田敏行 米大陸最高峰アコンカグアに挑む﹄に出演。
●2002年(平成14年)、マナスル︵8,163m︶に挑むが悪天候により7,700mで敗退。
●2007年(平成19年)、映画﹃ミッドナイト・イーグル﹄で、山岳アドバイザーの任を務める。
●﹃生き残る技術 : 無酸素登頂トップクライマーの限界を超える極意﹄(講談社+α新書)︵講談社,2009年︶ ISBN 978-4062726290
参考文献[編集]
●加藤幹敏,原真﹃ドキュメント速攻登山 : それぞれのシシャパンマ峰8012m-'82﹄︵東京新聞出版局,1984年︶ISBN 4808302187
●長尾三郎﹃無酸素登頂八〇〇〇メートル一四座への挑戦 : スーパークライマー小西浩文の愛と墓標﹄︵講談社,2003年︶ ISBN 4062118742
外部リンク[編集]
●小西浩文プロジェクト
●プロフェッショナルの唯言・小西浩文
●NetAgency 小西浩文公式ホームページ