山崎林太郎
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山崎 林太郎︵やまさき りんたろう、明治4年4月18日[1]︵1871年6月5日︶ - 1944年︵昭和19年︶5月24日[2][3]︶は、明治時代から昭和初期の政治家。山口県下関市長などを務めた。
経歴[編集]
兵庫県出身[4]。1893年︵明治26年︶に東京法学院︵現在の中央大学︶を卒業した後、﹃上毛新聞﹄の主筆となった[5]。星亨の知遇を得て、星が朝鮮法部顧問となると、顧問付となった[5]。帰国後、前橋市会議員に当選[5]。1901年︵明治34年︶、星が東京市会議長に就任すると市会書記長となった[5]。尾崎行雄市長時代には市区改正課長、庶務課長、勧業課長、臨時市区改正局主事、助役を歴任した[5]。1909年︵明治42年︶から2年余りイギリスを視察[5]。帰国後、浅草区長となり、1919年︵大正8年︶には東京市助役に再任され、さらに市理事を務めた[1]。1921年︵大正10年︶からは名古屋市助役に転じた[6]。 1922年︵大正11年︶、下関市長に選出された[7]。その後、関東水力電気株式会社常務取締役を務めた[4]。著書[編集]
脚注[編集]
(一)^ ab名古屋市会史 1939, p. 597.
(二)^ ﹁山崎林太郎氏︵前関東水力電気常務、元東京市助役︶﹂﹃朝日新聞﹄、1944年6月1日、2面。
(三)^ ﹁山崎林太郎氏︵元下関市長︶﹂﹃読売新聞﹄、1944年6月2日、3面。
(四)^ ab人事興信録 1937, p. ヤ134.
(五)^ abcdef大正東京府市名鑑 1914, p. 453.
(六)^ 名古屋市会史 1939, p. 593.
(七)^ ﹃下関名鑑﹄海峡社、1925年、p.114。