山本洪輔
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山本 洪輔︵やまもと こうすけ、天保13年︵1842年︶ - 明治32年︵1899年︶10月16日︶は幕末の越前福井藩出身の医者、蘭学者、志士、亀山社中・海援隊隊士。洪堂、復輔とも称した。諱は柳、字は子星、号は雪厳。
生涯[編集]
福井藩医師の山本宗平の次男に生まれる。兄は玄介︵宗隆︶、弟は淳良︵信卿︶、従兄弟に蘭学者で男爵となった岩佐純がいた。 万延元(1860)年、岩佐と共に松本良順の門人となる。 医術修行の名目で、大坂、京都、江戸と長崎を遊歴した[1]。その間に坂本龍馬の結成した亀山社中に入ったものと考えられ、慶応2年︵1866年︶12月20日の、龍馬から伊藤助太夫宛の手紙に名前が出てくるのが最初である。 慶応3年︵1867年︶4月に改編成された海援隊にも引き続き参加、陸奥宗光や高松太郎らと大阪において商事を営み、隊内の医官に長岡謙吉と共に名を連ねる。 同年11月15日に龍馬が暗殺されると、すぐさま長府藩士・熊野直介へと報知、同志の佐柳高次と共に下関に行き、伊藤や三吉慎蔵に伝える。また、いったん三吉慎蔵の屋敷にいた龍馬の妻・お龍を、同志の石田英吉や中島信行らと長崎に迎えるのに一役買う。 長崎に帰り、翌慶応4年︵1868年︶1月には隊で長崎奉行所を占拠する。また、天草富岡代官所の襲撃事件の鎮撫に同志の吉井源馬と向かい、見事に鎮圧する。 戊辰戦争では振遠隊に所属し、朝陽丸に乗り込んで、箱館湾海戦に参加する。明治2年︵1869年︶4月24日の戦闘で軽傷を負う。その後、同5月11日に朝陽丸は蟠竜丸によって轟沈されるが、一命は取り留めた。 その後福井藩に戻るが、明治3年︵1870年︶4月13日[1]、更に続けて医学修行を行いたい願を藩庁に提出し、受け入れられると同月18日大阪に向かった[1]。浪華軍事病院看頭として出仕するが同8月16日に辞職し、翌9月4日東京や横浜へ向かいたいという願が受け容れられ、出立した[1]。 官員録の明治6年︵1873年︶6月20日の項に﹁開拓使・八等出仕・山本洪堂﹂とある通り、開拓使に医官として出仕していた。同年10月1日、北見国宗谷で長男宗一が誕生。 明治8年︵1875年︶、開拓使を辞して、大阪市西区松島仲之町にいた弟信卿の元に身を寄せる。 明治12年︵1879年︶に信卿が東区今橋町4丁目に回春病院を設立。 明治14年︵1881年︶に信卿が没し、洪輔は院長を引き継いだ。 明治19年︵1886年︶、回春病院附属として、大阪癲狂院を設立︵南区逢坂町上之町4953番地︶。院長を務める。明治年間初の市立精神病院だった。回春病院は緒方洪庵の次男緒方惟準に譲られた。 明治22年︵1889年︶、大阪精神病院と改称。 明治27年︵1894年︶2月に福井市西宝永町︵現福井市宝永︶に建てられた主君松平春嶽の遺徳碑に寄付を行った。 明治32年︵1899年︶、10月16日没。息子の宗一が後を継いだ。 大阪精神病院は後に山本病院となり、現在は﹁八尾こころのホスピタル﹂として存続している。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 久寳博編著『山本病院 源流とその歩み』 山本病院、1989年4月