山村座 (貝塚市)
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種類 | 事業場 |
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市場情報 | 消滅 |
略称 | 貝塚東映(1962年 - 1966年) |
本社所在地 |
![]() 〒597-0001 大阪府貝塚市近木1028番地 |
設立 | 1920年代 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 映画の興行 |
代表者 | 山村英一 |
関係する人物 |
山村儀三郎 薩準次郎 和田富次 山村ヨシ |
特記事項:略歴 1920年代 開館 1963年 貝塚東映と改称 1966年 閉館 |
山村座︵やまむらざ︶は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13]。正確な年代は不明であるが1920年代、1929年︵昭和4年︶にはすでに大阪府泉南郡貝塚町大字近木町︵現在の同府貝塚市近木︶に開館している[1]。第二次世界大戦後はいち早く復興し、多くの日本映画を上映した[6]。1963年︵昭和38年︶には、前年に閉館した市内の東映系の劇場に代って貝塚東映︵かいづかとうえい︶と改称したが[10][11]、改称3年後の1966年︵昭和41年︶には閉館した[12][13]。同市内に本拠地のあったニチボー貝塚︵のちのユニチカ・フェニックス︶に所属した、﹁東洋の魔女﹂のひとり河西昌枝が、同館に通うことが﹁唯一の楽しみ﹂と語った映画館である[14]。
沿革[編集]
●1920年代 - 開館[1] ●1963年 - 貝塚東映と改称[10][11] ●1966年 - 閉館[12][13]データ[編集]
●所在地 : 大阪府泉南郡貝塚町近木町1028番地[1] ●現在の同府貝塚市近木1028番地[6][8]、跡地は駐車場。 北緯34度26分50秒 東経135度21分24秒 / 北緯34.44722度 東経135.35667度 ●経営 : (一)山村儀三郎 ︵1920年代[1] - 1963年[8][10]︶ (二)山村英一 ︵1963年[10][11] - 1966年[12][13]︶ ●構造 : 木造二階建[5][8] ●観客定員数 : 537名︵1942年[3]・1943年[4] - 1955年[5][6]︶ ⇒ 520名︵1961年[8]︶概要[編集]
正確な年代は不明であるが、大正末期から昭和初期にかけての1920年代には開館、1930年︵昭和5年︶に発行された﹃日本映画事業総覧 昭和五年版﹄によれば1929年︵昭和4年︶にはすでに大阪府泉南郡貝塚町大字近木町1028番地︵現在の同府貝塚市近木1028番地︶で常設映画館としての営業を行っていた記録が残っている[1]。同書には、観客定員数についての記載はないが、興行系統は松竹キネマ、経営者は山村儀三郎︵1888年 - 没年不詳︶であった旨の記述がある[1]。南海電気鉄道の貝塚駅西口正面を北上する通り︵通称﹁貝塚駅下がり﹂、現在の貝塚中央商店街︶に面した立地であった[15]。 同館の創業者である山村儀三郎は、南郡三田村︵のちの泉南郡山直下村大字三田、現在の岸和田市三田町︶の和田家に生まれ、大阪府第六尋常中学校︵のちの大阪府立岸和田中学校、現在の大阪府立岸和田高等学校︶を卒業して旧制小学校の教諭を務めていたが、貝塚町の山村家の女婿となり家督を相続、多角的に事業を推進し﹁篤行の士﹂として知られ、同市の市議会議員も務めた人物である[16][17]。同地域には、1931年︵昭和6年︶4月1日に貝塚町に併合される麻生郷村大字津田98番地︵現在の貝塚市津田北町2番地︶に岸見館︵経営・中西三郎︶が大正初期からいち早く開館しており、ほかにも日活および松竹キネマ作品を興行する八千代館︵貝塚町海塚新町407番地、経営・中西多重郎︶があった[1][2]。同年9月、当時泉南郡木島村大字水間︵現在の貝塚市水間︶に水間座が開館しているが[6]、当時の同時代の資料には映画館としての記録は見られない[1][2]。 戦後の資料である﹃映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧﹄によれば、山村は、同館と並行して1935年︵昭和10年︶1月には、岸和田市北町74番地123号︵現在の北町12番地12号︶に山村劇場︵のちの岸和田東映劇場︶を設立している[6]。同書は、貝塚の山村座についても﹁1935年﹂の設立であるとしているが、同時代の資料によれば上記の通り、開業はそれ以前である[1][2]。 1942年︵昭和17年︶には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の﹃映画年鑑 昭和十七年版﹄によれば、同館の興行系統は記載されていない[3]。当時の観客定員数は537名、経営者の欄には山村ヨシの名が記されており、支配人欄は空欄である[3]。翌1943年︵昭和18年︶発行の﹃同 昭和十八年版﹄によれば、観客定員は変わらないが、経営者の欄には和田富次の名が記されている[4]。同年5月1日、貝塚町は市制を敷き貝塚市になった。 戦後は、いち早く復興しており、1951年︵昭和26年︶に発行された﹃映画年鑑 1951﹄には、同市内では2館のみ、八千代館︵経営・村上朝一︶とともに記載されている[5]。当時の同館の経営者は山村儀三郎、支配人は薩準次郎である[5]。同書には岸和田の山村劇場も同様に記載されており、こちらの経営者・支配人も同様に山村・薩が兼任している[5]。薩準次郎は、のちに山村劇場の後身である岸和田東映劇場を、1970年代に山村家から引き継いで経営した人物である[18][19]。同年1月には、貝塚駅東口近くに貝塚劇場︵海塚町92番地、経営・西村昇︶が開館、八千代館、岸見館︵経営・神宮寺徳市︶、水間座︵経営・鈴木はるゑ︶とともに同市内の映画館は合計5館になった[6]。当時、山村儀三郎が同市議会議員であったように、八千代館の村上朝一︵1906年 - 没年不詳︶も同市議会議員を務めており[20]、岸見館を経営していた当時の永吉誓順は1949年︵昭和24年︶の第24回衆議院議員総選挙に出馬︵落選︶[21]、と映画館の館主が戦後の同地の名士、実力者であった時代であり、映画産業が斜陽化する1960年代まで5館体制はつづいた[9][10]。当時の同館の興行系統は松竹・新東宝・東映の上映館であったが、岸見館も大映・東宝・東映・新東宝の上映館であり、重複していた[6]。 1959年︵昭和34年︶には、岸見館が東映と専門館契約を結んで岸見東映と改称、東映の封切館になった[7]が、1962年︵昭和37年︶には閉館してしまう[9][10]。山村座は、これを引き継いで東映と専門館契約を結び、翌1963年︵昭和38年︶には貝塚東映と改称している[10][11]。それとともに、同館の経営も山村儀三郎から山村英一へと代変わりした[10][11]。同年に発行された﹃映画年鑑 1963﹄によれば、前年2月5日、水間座が火災により全焼、そのまま閉館しており[9][10][22]、水間座・岸見東映の2館の閉館により、同市内の映画館は、貝塚東映となった同館、八千代館、貝塚劇場3館のみになる[9][10]。同館と同一経営である岸和田の山村劇場は、同館に先立つ1957年︵昭和32年︶には岸和田東映劇場と改称、東映の封切館となっており、山村が経営する映画館は両館とも﹁東映﹂を名乗ることになった[23]。1964年︵昭和37年︶には八千代館が閉館、同市内の映画館は、同館と貝塚劇場の2館のみになった[11]。ニチボー貝塚︵のちのユニチカ・フェニックス︶に所属し、いわゆる﹁東洋の魔女﹂のコーチ兼主将として、同年10月の東京オリンピックで日本女子バレーボールチームの優勝に貢献した河西昌枝︵1933年 - 2013年︶が、のちに同市内で行った講演で﹁山村座・八千代館に映画を見に行くのが唯一の楽しみ﹂と語ったのは、この時代までのことである[14]。 しかしながら、貝塚東映となった同館は、その3年後の1966年︵昭和41年︶には閉館、市内の映画館が後発の貝塚劇場1館のみになった[12][13]。同館の近くにあった山村家の邸宅も同時期に譲渡・売却され、同年、建物を改装使用した﹁深川料亭﹂が開店、2014年︵平成26年︶現在も営業中である︵近木1459番地︶[24][25]。その後、同館の跡地は、万代百貨店貝塚店︵現在の万代貝塚店︶になったが、2009年︵平成21年︶3月20日に貝塚駅前︵近木1447番地7号︶に移転のため閉店[26][27][28]、Google ストリートビューによれば同年7月には解体されており、Google マップ航空写真によればその後は駐車場である[29]。山村家が経営した岸和田東映劇場は、かつて支配人であった薩準次郎が引き継いで経営した後、東映準直営館︵経営・トーエー商事︶に変わったが、1981年︵昭和56年︶に閉館した[30][31]。脚注[編集]
(一)^ abcdefghij総覧[1930], p.584.
(二)^ abcd昭和7年の映画館 大阪府下31館 Archived 2016年3月5日, at the Wayback Machine.、中原行夫の部屋︵原典﹃キネマ旬報﹄1932年1月1日号︶、2014年1月22日閲覧。
(三)^ abcd年鑑[1942], p.10-109.
(四)^ abc年鑑[1943], p.472.
(五)^ abcdef年鑑[1951], p.389, 390.
(六)^ abcdefgh総覧[1955], p.115-117.
(七)^ ab便覧[1960], p.180.
(八)^ abcde便覧[1961], p.182.
(九)^ abcde便覧[1962], p.177.
(十)^ abcdefghijk便覧[1963], p.170.
(11)^ abcdefg便覧[1964], p.161.
(12)^ abcde便覧[1966], p.128.
(13)^ abcde便覧[1967], p.120.
(14)^ abあたっく6、貝塚市・貝塚市教育委員会、2008年4月5日発行、2014年1月22日閲覧。
(15)^ 貝塚中央商店街振興組合、貝塚市商店連合会、2005年現在、2014年1月23日閲覧。
(16)^ 同盟[1936], p.91-94.
(17)^ 同盟[1948], p.130.
(18)^ 便覧[1975], p.113.
(19)^ 便覧[1977], p.113.
(20)^ 同盟[1949], p.13.
(21)^ 第24回衆議院議員選挙 大阪5区・永吉誓順、ザ選挙、VoiceJapan, 2014年1月22日閲覧。
(22)^ 年鑑[1963], p.288.
(23)^ 便覧[1958], p.158.
(24)^ 第5回 会員ネットワーク、貝塚商工会議所、2014年1月22日閲覧。
(25)^ 深川料亭、ぐるなび、2014年1月22日閲覧。
(26)^ 万代百貨店、貝塚市商店連合会、2005年現在、2014年1月23日閲覧。
(27)^ 2009年3月の最新情報、万代、2009年3月付、2014年1月23日閲覧。
(28)^ 貝塚店、万代、2014年1月23日閲覧。
(29)^ 大阪府貝塚市近木町1028番地、Google ストリートビュー、2009年7月撮影、2014年1月22日閲覧。
(30)^ 名簿[1981], p.110.
(31)^ 名簿[1982], p.112.
参考文献[編集]
- 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
- 『非常時日本と人物』、原静村、南海新聞社、1936年発行
- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
- 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
- 『同盟新日本大鑑1948』、同盟通信社、1947年発行
- 『同盟新日本大鑑1949』、同盟通信社、1948年発行
- 『映画年鑑 1951』、時事映画通信社、1951年発行
- 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事映画通信社、1955年発行
- 『映画年鑑 1958 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1958年発行
- 『映画年鑑 1960 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1960年発行
- 『映画年鑑 1961 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1961年発行
- 『映画年鑑 1962 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1962年発行
- 『映画年鑑 1963』、時事映画通信社、1963年発行
- 『映画年鑑 1963 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1963年発行
- 『映画年鑑 1964 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1964年発行
- 『映画年鑑 1966 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1966年発行
- 『映画年鑑 1967 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1967年発行
- 『映画年鑑 1975 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1975年発行
- 『映画年鑑 1977 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1977年発行
- 『映画年鑑 1981 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1981年発行
- 『映画年鑑 1982 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1982年発行
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
画像外部リンク | |
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![]() 移転前・2005年以前の撮影 |
- 大阪府貝塚市近木1028番地 - 2009年7月時点の同館跡地 (Google マップ・Google ストリートビュー)
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