山田重英
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山田 重英 | |
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時代 | 戦国時代後期 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 天正16年(1588年)[1] |
別名 | 八蔵[1] |
墓所 | 山田八蔵塚(愛知県岡崎市本宿町柿崎)[2] |
主君 | 鳥居久兵衛、徳川家康 |
氏族 | 尾張源氏流山田氏[1] |
子 |
山田甚平の妻?[注釈 1][4] 養子:甚平?[注釈 1]、重次[注釈 2][1] |
山田 重英︵やまだ しげふさ︶は、戦国時代から安土桃山時代の武士。徳川家康の家臣。
生涯[編集]
尾張源氏の一流である山田氏の末裔で、﹃岡崎東泉記﹄によれば家康の嫡男である岡崎城主松平信康の重臣・鳥居久兵衛[注釈 3]の家臣だったという[7][8]。永禄6年︵1563年︶三河一向一揆蜂起の際には戸田忠次・鳥居重正らとともに佐々木上宮寺に入って一揆方に与している[9][10]。 天正3年︵1575年︶同輩の小谷甚左衛門[注釈 4]に誘われ、大賀弥四郎らの計画する武田氏内通の謀議に加わる。しかし重英は途中で思い直して事の次第を信康に報じ、大賀弥四郎らの陰謀を事前に食い止めることとなった。この功により碧海郡柿崎に500石の加増を受け、後に同郡大浜や額田郡上地も加増された。上の経緯から﹁訴人八蔵﹂の異名があったという。 天正16年︵1588年︶岡崎で同輩の渥美弥三郎[注釈 5]と口論し、殺害された。所領はすべて没収となった。 天正17年︵1589年︶養子の重次[注釈 2]が仇討ちを果たして認められ、翌年に300石を与えられて家名を再興した[7][2][1][5]。関連作品[編集]
テレビドラマ脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』, pp. 5–6.
- ^ a b 『近世三河地方文献集』, p. 95.
- ^ 『寛永諸家系図伝』, § 清和源氏 山田.
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』, p. 6.
- ^ a b 『寛永諸家系図伝』, § 清和源氏満政流 山田.
- ^ 『寛政重修諸家譜』9, p. 306.
- ^ a b c 『新編岡崎市史』, pp. 929–932.
- ^ 『寛政重修諸家譜』, p. 5.
- ^ 『新編岡崎市史』, p. 832.
- ^ 『家康史料集』, p. 306.
- ^ 『新編岡崎市史』, p. 1054.
- ^ “【どうする家康 今夜の初登場】徳川家家臣・山田八蔵役は米本学仁!「鎌倉殿」は工藤茂光役 2年連続大河”. スポニチニュース. 2023年5月29日閲覧。