島薫
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島 薫 | |
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生誕 |
1897年 日本 広島県安芸郡中野村 |
死没 |
1977年 日本 広島市 |
教育 | 旧制大阪医科大学卒業 |
医学関連経歴 | |
職業 | 開業医 |
分野 | 外科 |
所属 | 島病院院長 |
島 薫︵しま かおる、1897年︿明治30年﹀[注 1] - 1977年︿昭和52年﹀[2]︶は、日本の医師。広島市への原子爆弾投下の爆心地にある島病院初代院長。﹁広島外科会の父﹂[4]。
来歴[編集]
安芸郡中野村︵現広島市安芸区中野︶出身[2]。1916年︵大正6年︶旧制広島県立広島中学校︵現広島国泰寺高校︶卒業[1]。同年度卒に永山忠則・深山静夫らがいる[1]。 旧制大阪医科大学︵現大阪大学医学部︶へ進学[1]、1924年︵大正13年︶卒業[5][2]。岩永仁雄に師事した[5]。その後、ドイツ・アメリカで留学・研修を続けた[1][2]。 1933年︵昭和8年︶8月31日、広島市細工町29-2︵現中区大手町1丁目5-25︶に﹁島病院﹂を開院した[2]。当時の開院挨拶状には﹁廣島郵便局東側に於いて外科病院を經營﹂﹁外科一般特に内臟外科の診療に從事﹂とある[2]。病院を建てる際には、アメリカ留学時代に感銘を受けたセント・メアリーズ病院︵現メイヨー・クリニック︶の運営方針を範とし、患者が低料金で治療・入院が受けられるように工夫した[6]。島病院は当時としては最新設備を備える大きな病院で、島の持つ高い技術は市民に広く知られていた[2][4]。当時市中心部では外科の外来が少なかったこともあり、島病院には多くの患者が訪れ、病室はいつもほぼ満室だった[7][8][9]。島は医療費の払えない患者も拒まず、お礼にと野菜が届けられたこともあったという[4]。 当時島は広島の外科のリーダー的存在の一人であった[10]。1934年日下部且三・松尾信吉とともに広島外科医会︵現広島外科会︶を立ち上げた[10]。榊原亨に賛同し、日本臨床外科学会創立運動の中核を担った[5]。 1945年8月5日、島は知人に頼まれ看護婦1人とともに広島県世羅郡甲山町へ出張手術に行っていた[7][3][4]。翌8月6日広島市への原子爆弾投下、島病院が爆心地となった。﹁広島全滅﹂の報を受けた島はその日の夜に甲山から戻る︵入市被爆︶が、病院は損壊、のちに患者・看護婦ら約80人は全員死亡していたことがわかる[7][3][4]。その後は倒壊を免れた銀行などに泊まりながら、臨時救護所となっていた袋町小学校で負傷者治療に努めた[7][3][4]。この間、島病院の焼け跡に︵当時安否がわからなかった︶病院関係者や患者たちの消息を尋ねる伝言を記し、島自身も探して回ったり、島を訪ねてきた遺族には﹁誰のものかも分からない骨の代わりに一握りの土を持って帰るよう﹂伝えたという[4][8]。 その3年後となる1948年に同地で島病院を再建した[7][3]。再建後も被爆者医療に尽力した[3]。プレスコードによって原爆症に関する情報は何も知らされないまま、広島の医師たちは手探りで挑んでいった[11]。1950年代初頭原爆乙女が話題となり彼女たちが東京や大阪の病院で手術を受ける中、広島には手術ができる外科医はいないのかという声が大きくなった[11][12]。この時代も広島外科会の中心人物の一人が島であった[12]。こうした流れの中で医師が団結し1953年広島原爆障害対策協議会︵原対協︶が発足、のち原爆医療法制定に至った[11][12]。 また後年には広島信用金庫2代目理事長(1971年-1973年︶[1]などを務めている。 1977年死去[3]。享年79[3]。息子が島病院を継いだ[4]。2016年その息子の尽力により国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された[3]。被爆前の病院関係者の集合写真や島が書いた回想録も収蔵されている[3]。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ abcdef“大正06年卒の人物”. 鯉城同窓会. 2021年7月27日閲覧。
(二)^ abcdefgh“爆心地の島病院33年8月31日付 開業告げるあいさつ状現存”. 中国新聞 (2020年11月24日). 2021年7月27日閲覧。
(三)^ abcdefghij“島元院長の遺影登録 広島祈念館 被爆者治療に尽力”. 中国新聞 (2016年8月18日). 2021年7月27日閲覧。
(四)^ abcdefgh“﹇ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現﹈ 爆心地の島病院 継ぐ思い”. 中国新聞 (2020年7月20日). 2021年7月27日閲覧。
(五)^ abc榊原宣﹁この会を創った開業医﹂﹃日本臨床外科学会雑誌﹄第70巻第4号、日本臨床外科学会、2009年4月、955-961頁、doi:10.3919/jjsa.70.955、ISSN 13452843、NAID 10024956673、2021年11月7日閲覧。
(六)^ 島薫・島忍著﹃島薫あれもこれも・島病院院長追悼遺稿集﹄1983年 島忍︵自費出版︶広島アカデミイ書店
(七)^ abcde“ヒロシマの記録-遺影は語る 細工町”. 中国新聞 (2000年2月21日). 2021年7月27日閲覧。
(八)^ ab“島病院に犠牲者名簿 爆心地 昨夏発見41人分記載”. 中国新聞 (2020年7月20日). 2021年7月27日閲覧。
(九)^ “原爆直下 島病院内部の写真 開業記念の絵はがきに印刷 資料館にデータを提供へ”. 中国新聞 (2018年8月6日). 2021年7月27日閲覧。
(十)^ ab“広島外科会会長挨拶”. 広島県医師会. 2021年7月27日閲覧。
(11)^ abc“検証 ヒロシマ 1945~95 <4> 初期医療②”. 中国新聞 (2012年3月30日). 2021年7月27日閲覧。
(12)^ abc江崎治夫﹁原爆症と外科﹂︵PDF︶﹃原爆と広島大学﹄、広島大学原爆死没者慰霊行事委員会、2012年、139-142頁、2021年7月27日閲覧。