崔華國
崔 華國︵さい かこく、本名・崔 泳郁(朝: 최영승)、日本名・志賀郁夫、1915年8月26日 - 1997年3月12日︶は、昭和後期から平成時代の詩人。
韓国慶尚北道慶州郡内南面伊助里に生まれ、16歳での渡日︵開成中学の編入試験に合格︶を始まりに日韓両国を往復しながら数社の新聞記者として活動︵この間、神田三崎町の新聞学院に8期生として学ぶ︶[1]。
1955年(昭和30年)封切りの映画、高崎市民オーケストラ︵後の群馬交響楽団︶の草創期をモデルにした﹁ここに泉あり﹂に感動して群馬県高崎市へ転居。1957年(昭和32年)名曲茶房﹁あすなろ﹂を開く。この喫茶店を舞台に“郷土を美しい絵と詩と音楽で飾ろう”をキャッチフレーズにして、高崎の芸術文化活動の先鋒を担った[1][2][3][4]。群馬音楽センター建設募金活動への協力、群馬交響楽団員らによる﹁生の音楽の夕べ﹂、岡田刀水士と群馬詩人クラブ・日本の代表的な詩人と朗読会﹁詩の朗読の夕べ﹂、﹁あすなろ美術サロン﹂と群馬県展からの秀作美術展、芸術文化情報紙﹁あすなろ報﹂の発行、神津・荒船高原で﹁詩人とつどう会﹂の開催、等々。﹁あすなろ﹂に於ける志賀郁夫︵崔華國︶は、群馬交響楽団や詩人・画家たちを物心両面から熱烈に支援する後援者であり、﹁あすなろ﹂が閉店する1982年(昭和57年)まで続いた。
1974年(昭和49年)詩誌﹁四海﹂に﹁回想の洛東江﹂と題する詩を発表[5]、ここに詩人崔華國が誕生した。それまでの志賀郁夫は﹁書かざる詩人﹂と言われていた[3]。1985年(昭和60年)日本語での第2詩集﹃猫談義﹄で第35回H氏賞を受賞[6][7]。この受賞は外国人として初であった。その後、第42回H氏賞では審査委員長を務めた[8]。1995年(平成7年)娘夫婦の住む米国に永住権を得て移住。1997年(平成9年)詩集﹃晩秋﹄が韓国の第7回片雲文学賞特別賞を受賞[9]。1997年(平成9年)3月、米国オハイオ州にて肺ガンにより永眠。
2001年(平成13年)からは関わった人たちにより、崔華國と﹁あすなろ﹂を偲ぶ﹁あすなろ忌﹂が開催された[3][10]。
主な作品[編集]
- 詩集『輪廻の江』白鹿出版社(韓国、韓国語)、1978年(昭和53年)
- 詩集『驢馬の鼻唄』詩学社、1980年(昭和55年)
- 詩集『猫談義』花神社、1984年(昭和59年)
- 詩集『ピーターとG』花神社、1988年(昭和63年)
- 詩集『晩秋』ピッナム出版社(韓国、韓国語)、1997年(平成9年)
- 崔華國詩集 土曜美術社 日本現代詩文庫33、1989年(平成元年)
- 崔華國詩全集 土曜美術社 齋藤怘・他編、1998年(平成10年)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
(一)^ ab﹃崔華國詩全集﹄土曜美術社、1998年3月、~記憶に頼る自編年譜頁。
(二)^ “特集・あすなろと群馬交響楽団”. 上州風 第2号 上毛新聞社. (2000年3月).
(三)^ abc﹃名曲茶房﹁あすなろ﹂小史 藤井浩著﹄上毛新聞社、2013年6月。
(四)^ ﹃あすなろと崔華國 群馬県立土屋文明記念文学館編﹄群馬県立土屋文明記念文学館、2013年7月。
(五)^ 同人詩誌﹁四海﹂ 12号 四海書房. (1974年4月).
(六)^ “受賞者リスト”. 日本現代詩人会. 1922年1月13日閲覧。
(七)^ “第35回H氏賞 受賞者・受賞作”. 文学賞の世界. 2022年1月13日閲覧。
(八)^ “第42回H氏賞 受賞者・受賞作、選考委員”. 文学賞の世界. 2022年1月13日閲覧。
(九)^ ﹃崔華國詩全集﹄土曜美術社、1998年3月、~金善慶による加筆年譜頁。
(十)^ ﹃あすなろと崔華國 群馬県立土屋文明記念文学館編﹄群馬県県立土屋文明記念文学館、2013年7月。