川北正太郎
川北 正太郎︵かわきた しょうたろう、1884年︿明治17年﹀9月8日[1][2][3][注 1] - 1953年︿昭和28年﹀7月19日[4]︶は、大正から昭和時代前期の政治家。京都府舞鶴市長、加佐郡中筋村長。
経歴[編集]
水鳥作蔵の二男として京都府舞鶴市に生まれる。京都師範学校を卒業し教職に就く[5]。加佐郡中筋村助役を経て[5]、1919年︵大正8年︶4月、同村長に就任[1]。ついで加佐郡町村長会長、京都府会議員、郡農会長などを経て、1932年︵昭和7年︶10月、舞鶴町長となる[1]。周辺町村との合併を推し進め、1938年︵昭和13年︶8月、市制施行とともに市長臨時代表者を務め、同年9月10日、舞鶴市長に就任した[1]。東舞鶴市と合併して新たに舞鶴市が成立した後も市長を務めた。1942年︵昭和17年︶市長を一旦辞職。 戦後の1946年︵昭和21年︶1月、舞鶴市長立花一の辞職により市長に復帰[6]。同年11月に辞職。その後公職追放となった[7]。親族[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』京都29頁では9月20日生。
出典[編集]
- ^ a b c d 帝国自治協会 1938, 43頁.
- ^ 京都府議会事務局 1961, 992頁.
- ^ 日外アソシエーツ 2022, 275頁.
- ^ 京都府議会事務局 1961, 994頁.
- ^ a b 帝国秘密探偵社 1943, 京都29頁.
- ^ 歴代知事編纂会 1984, 727頁.
- ^ 総理庁官房監査課 1949, 235頁.
- ^ 帝国秘密探偵社 1943, 京都90頁.