布利秋
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布 利秋︵ぬの としあき、1887年︵明治20年︶8月30日[1] ‐ 1975年︵昭和50年︶6月15日[1][2][3]︶ は、大正から昭和期の海外特派員、著述家、政治家。衆議院議員。
経歴[編集]
愛媛県[3]北宇和郡吉野村[1][2]︵吉野生村を経て現松野町︶で、布岩太郎の二男として生まれた[1]。1911年︵明治44年[注釈 1]︶早稲田大学政治経済科を卒業[1][2]。さらに同大文科で地理学を学んだ[1]。のちワシントン大学[要曖昧さ回避]文科、ロンドン大学文科でも学ぶ[3]。 コーストタイムス旬刊雑誌社主幹、外務省特務通信員、中央新聞海外派遣員を務め[1][2][3]、18年間で世界60数か国を旅行し[1][2]、1933年︵昭和8年︶中央アジアで消息不明となる[1]など﹁世界漫遊家﹂と称された[1]。また著述業にも従事した[3]。 戦後、1946年︵昭和21年︶4月の第22回衆議院議員総選挙に愛媛県全県区から出馬して当選[1][2][4]。参議院制度への反対、叙勲恩給反対、耕地自由販売反対を主張し[1]、民主党拡大準備会代表[2]、国民協同党政調会復員部長[3]などを務め、衆議院議員に1期在任した[1][3]。のちに自由民主党同志会会員となった[3]。人物[編集]
奇行が多い人物であった[1]。
●1914年︵大正3年︶セオドア・ルーズベルトに対して﹁東洋人に対する差別をなくせよ、さもなくば余と決闘をもって黒白を決定されたい﹂との決闘状を送った[1][2]。
●1969年︵昭和44年︶82歳で﹁生き葬式﹂を行い話題となった[1]。
国政選挙歴[編集]
●第21回衆議院議員総選挙︵愛媛県第3区、1942年4月、非推薦︶落選[5] ●第22回衆議院議員総選挙︵愛媛県全県区、1946年4月、諸派︶当選[1][2][4] ●第23回衆議院議員総選挙︵愛媛県第3区、1947年4月、民主党︶落選[1][6] ●第24回衆議院議員総選挙︵愛媛県第3区、1949年1月、民主党︶落選[7]著作[編集]
●﹃日本没落か?﹄万里閣書房、1930年。 ●﹃欧洲の不安とスペインの動乱 : それが極東にどう響くか﹄︿今日の問題パンフレット ; no.68﹀今日の問題社、1936年。 ●﹃敗戦支那国際大論戦﹄一新会、1938年。 ●﹃北支案内記﹄北支研究会、1938年。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』485頁では明治42年。