形而上学的ニヒリズム
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形而上学的ニヒリズム︵けいじじょうがくてきニヒリズム、英: Metaphysical nihilism︶は、無に関する立場の一つ。無は可能か・不可能か、という論点に関して﹁無であることも可能だった﹂﹁何もない事も可能だった﹂︵there might have been nothing︶と主張する立場。哲学の一分野である形而上学の領域で議論される立場の一つで、﹁無などそもそも不可能である﹂とする立場と対立する。
存在論上の議論において、﹁存在﹂と﹁無﹂、すなわち﹁何かがある﹂という事と﹁何もない﹂という事の二つはしばしば対置されて論じられる。そうした議論の中で﹁無﹂、つまり﹁何もない﹂などという事がそもそも可能であるのかは一つの論点となる。この点に関して﹁無であることも可能だった﹂﹁何もない事も可能だった﹂と主張する立場が形而上学的ニヒリズムである。
概要
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﹁無は可能か﹂という問題は、古くから哲学者たちによって議論されてきた問題で、紀元前5世紀の古代ギリシャの哲学者パルメニデスもこの問題を論じた[1]。
21世紀初頭における﹁無は可能か﹂という問題についての議論の興隆は、1996年に発表されたピーター・ヴァン・インワーゲンとE.J.ロウの論文[2]をきっかけとして始まった。当初、この立場は単に﹁ニヒリズム︵nihilism︶﹂とだけ呼ばれていたが、他の様々なニヒリズムと区別するため、E.J.ロウが2002年の論文で﹁形而上学的ニヒリズム︵metaphysical nihilism︶﹂と呼ぶことを提案[3]、以降その名称が広く使われるようになった[4]。
定式化
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形而上学的ニヒリズムの立場は、一般に議論対象とする存在者を具体的対象︵Concrete object︶に絞った上で、次のように定式化される。
●﹁具体的対象がまったく存在しない﹂ことは可能である。︵It is possible that nothing concrete exists.︶[5]
可能世界論の枠組みを用いて定式化される場合、次のような形を取る。
●wにおいて﹁具体的対象が何もない﹂という命題が真となる、そうした可能世界wが存在する。︵There is a possible world w such that "There are no concrete objects" is true at w.︶[6]。
ここで具体的対象とは、たとえば椅子や机や石ころなどのことで、抽象的対象︵Abstract object、数や命題や﹁赤︵という性質・概念︶﹂など︶と対置される、存在論上の対象分類の一つである。
引き算論法
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形而上学的ニヒリズムの立場を擁護する論法として引き算論法︵Subtraction argument︶というものがある。引き算論法は1996年にイギリスの哲学者トマス・ボールドウィン︵Thomas Baldwin︶によって提出された論証で[7]、以下のようなものである。
(一)数多くの、しかし有限個の、ものが存在する。
(二)一つ一つのそれぞれのものは存在しないことも可能だった。
(三)ひとつのものの除去に、他の新たなものの追加は必要ではない。
(四)以上のことから、何も存在しないことも可能だった。
批判
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この立場には様々な批判がある。様相実在論の提唱者として知られるアメリカの哲学者デイヴィド・ルイス︵1941年-2001年︶は、﹁具体的対象がひとつもない﹂という事は不可能だと主張した。その理由として、﹁世界﹂は具体的対象である、それゆえどんな世界であっても﹁世界﹂という具体的対象が必ずある、よって具体的対象がひとつもない世界は不可能である、とした。イギリスの哲学者E.J. ロウ︵1950年生︶は次のように批判した。ある種の抽象的対象、例えば数、は必然的に存在する。唯一の可能な抽象的対象は集合か普遍である。集合も普遍も、それが存在するためには具体的対象を必要とする。たとえば集合であれば集合を作るためのメンバーが、普遍であればそれを例化するためのモノが必要である。よって何らかの具体的対象は必ず存在する、とした。
関連する話題
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●この立場は﹁何もない空っぽの世界︵empty world︶を可能世界の一つとして認めるか﹂という点において、様相論理や可能世界論における﹁どのような可能世界を認めるか﹂といった議論と関わる。これは数学の哲学や論理学の哲学で論じられる﹁空集合︵empty set︶とは何か﹂といった議論とも同傾向の内容を含む。
●この立場は﹁なぜ無ではなく、何かが存在するのか﹂という存在論上の問いと関わる。もし﹁何もない事も可能だった﹂︵つまり形而上学的ニヒリズムの立場が正しい︶のだとした場合、﹁なぜ無ではないのか﹂という問いはそこから先へ進んで思考する意味を持ちうる。しかし﹁何もないことなどそもそも不可能だった﹂︵つまり形而上学的ニヒリズムの立場は間違っている︶とした場合、﹁なぜ無ではないのか﹂という問いに対しては﹁それは不可能だから﹂という形で答えることで終わらせることができるものとなる︵詳細はなぜ何もないのではなく、何かがあるのか#無は不可能であるを参照︶。
脚註
[編集]参考文献
[編集]- Efird, D. and Stoneham, T. (2005a) "The Subtraction Argument for Metaphysical Nihilism." The Journal of Philosophy, 101 (6). pp. 303-25.
- Efird, D. and Stoneham, T. (2005b) "Genuine Modal Realism And The Empty World." European Journal of Analytic Philosophy, 1 (1). pp. 21-37. (オンライン・ペーパー)
- E.J.Lowe (2002) "Metaphysical nihilism and the subtraction argument" Analysis, Volume 62, Issue 273, pages 62–73 (オンライン・ペーパー)
- Gonzalo Rodriguez-Pereyra (1997) "There Might Be Nothing: The Subtraction Argument Improved" Analysis 57.3, July 1997, pp. 159–166.(オンライン・ペーパー)
- Gonzalo Rodriguez-Pereyra (2004) "Modal Realism and Metaphysical Nihilism," Mind, 2004, 113 (452), pp. 683-704. (オンライン・ペーパー)
- Gonzalo Rodriguez-Pereyra (2002) "Metaphysical nihilism defended: reply to Lowe and Paseau" Analysis, 2002, 62 (2), pp. 172-80 (オンライン・ペーパー)
- Kelly Trogdon (2011) "[Review] Geraldine Coggins: Could There Have Been Nothing? Against Metaphysical Nihilism" Notre Dame Philosophical Reviews, Notre Dame University (オンライン・ペーパー)
- Rickles, Dean (2010) "Nothingness for Compositionalist" Annales Philosophici (University of Oradea's Annals, The Philosophy Section) Issue 1, pp.73-76 (オンライン・ペーパー)
- Sorensen, Roy (2009) "Nothingness", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2009 Edition), Edward N. Zalta (ed.) (オンライン・ペーパー)
- Thomas Baldwin (1996)“There might be nothing.” Analysis 56, pp.231-238.
- Van Inwagen, Peter and Lowe, E. J. (1996) “Why Is There Anything at All?”, Proceedings of the Aristotelian Society, 70: 95-120.