志村茂治
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志村茂治 しむら しげはる | |
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生年月日 | 1898年9月10日 |
出生地 |
日本 神奈川県三浦郡初声村 (現・神奈川県三浦市) |
没年月日 | 1971年8月9日(72歳没) |
出身校 | 京都帝国大学経済学部卒業 |
前職 | 神奈川県農地委員 |
所属政党 |
(左派社会党→) (日本社会党→) 無所属 |
選挙区 | 旧神奈川2区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1952年10月1日 - 1958年4月25日 |
志村 茂治︵しむら しげはる、男性、1898年︵明治31年︶9月10日 – 1971年︵昭和46年︶8月9日︶は、神奈川県出身の政治家、経済学者。衆議院議員︵3期︶。
経歴[編集]
三浦郡初声村和田︵現・三浦市︶に、志村広太郎の長男として生まれる[1]。1921年︵大正10年︶東京帝国大学農学部実科、1925年︵大正14年︶京都帝国大学経済学部を卒業、東京帝国大学農学部教授・佐藤寛次の研究室に入り農業経済学を専攻[2]。ベルリン大学、ハイデルベルク大学にも学び、帰国後は専修大学経済学部講師、日本大学商経学部教授、中央物価統制協力会議調査部長を務める。 戦後、神奈川県農地委員を務めていた[3]1952年︵昭和27年︶、第25回衆議院議員総選挙において、旧神奈川2区にて 左派社会党から立候補し当選。以後1953年(昭和28年)、1955年(昭和30年)と3回連続当選を果たす。1955年の当選後は日本女子経済短期大学教授を兼任。日本社会党党内においては教育宣伝局教育文化副部長を務めた。 1955年8月、ジュネーブで開催された第1回原子力平和利用国際会議に、中曽根康弘︵日本民主党︶、前田正男︵自由党︶、松前重義 ︵右派社会党︶とともに参加する。帰国後4議員は原子力推進を謳った共同声明を発表。志村は日本の原子力政策史に名前を残すこととなる。なお、後に日本原子力研究所の誘致において、志村の地元選挙区である横須賀市武山と、中曽根の地元である群馬県とで競合する一幕もあった[4]。 1958年︵昭和33年︶の第28回衆議院議員総選挙において、社会党から公認を得られなかった[5]志村は離党し無所属で出馬するも落選。政界を引退する。 1971年8月9日、心筋梗塞のため[6]逝去。享年72。墓所は三浦市初声町和田の天養院にある。著作[編集]
脚注[編集]
(一)^ 神奈川県県民部県史編集室﹃神奈川県史 別編1人物﹄︵神奈川県、1983年︶pp.379
(二)^ ﹃朝日新聞﹄︵東京本社発行︶1940年12月12日朝刊3面﹁国民食糧の自給力︵上︶綜合的総供給力 食糧問題解決の鍵 中央物価統制協力会議 志村茂治﹂筆者紹介より。なお朝日新聞の記事では﹁東大農学部佐藤見次博士の研究室に入り﹂と記載されているが、現在国立国会図書館にも蔵書がある志村の著書﹃生糸市場論﹄︵明文堂、1933年︶が、佐藤寛次が監修を務めた﹁蠶絲︵蚕糸︶問題研究﹂シリーズの第2巻として刊行されており、師弟関係の存在が類推できるので、記事の表記はおそらく誤記と考えられる。
(三)^ 日本国政調査会議﹃︵第1回・1890年~第34回・1976年総選挙︶衆議院名鑑﹄︵国政出版局、1977年︶pp.196
(四)^ ﹃朝日新聞﹄︵東京本社発行︶1956年4月6日朝刊3面﹁武山問題はなぜもめる?﹂
(五)^ ﹃朝日新聞﹄︵東京本社発行︶1958年4月25日夕刊1面﹁志村氏 社党を離党﹂
(六)^ ﹃朝日新聞﹄︵東京本社発行︶1971年8月10日朝刊3面訃報