新宮凉園
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新宮 凉園︵しんぐう りょうえん、1852年︵嘉永5年︶ - 1925年︵大正14年︶︶は、幕末・明治期の医者・官吏。慶應義塾医学所教頭[1]。
経歴[編集]
摂津国高槻生まれ。京都に住む。紀州藩医の新宮凉介の長男で、代々紀州藩の藩医を務めた新宮家の出身。 新宮凉庭が私財を投じて京都におこしていた医学塾、家塾・新宮凉庭塾︵順正書院︶で蘭方医学を学び、江戸に出て叔父の松山棟庵が寄宿していた慶應義塾に住み込み、岩佐純・西周に蘭学・医術を学び、横浜に遊学してドクトル・シモンズに学ぶ。大学東校の教授となり、中毒療法の一編を翻訳して上梓する。横浜の十全病院に通い、杉田武と共研学社をおこす。 1874年︵明治7年︶に慶應義塾医学所の教頭となり、かつ太政官より医術開業免許を受ける。慶應義塾医学所の教員及び役員の杉田武・小泉芳五郎・上田藤太・前田政四郎・松山誠二・沖野嘉太郎・江島春熙・宮田温・片倉壽栄・平野庄三郎らと共に、成医会、東京医学会︵後の日本医師会︶の創立に尽力。 内務省御用掛として1882年︵明治15年︶奏任御用掛、医術開業試験対策調査事務となる。1884年に非職となり、以降民間にて治療にあたる[1]。家族[編集]
●実父・新宮凉介︵貞亮︶ - 紀伊︵和歌山県︶の医師の松山庄太郎の子。松山棟庵の兄。新宮凉庭の養子。 ●妻・増枝 - 新宮凉庭の孫︵凉庭の娘の松代と婿養子の新宮凉民の長女︶[2]。 ●娘・春子 - 夫に加賀大聖寺藩士の金谷宗次郎の次男の彦二︵1879年生︶をむかえ、新宮凉国と改名させた[3]。凉国は東大医科卒業後、東京女子高等師範学校講師を経て三井同族事務局、三井総元方嘱託[4]。春子・凉国の娘婿に、村橋俊介・片山信夫がいる[4]。なお、三井家元老の能勢壽福によると、新宮家は凉民︵凉園の岳父︶の代までは盛んであったが、凉園の放蕩により家を売り、破産したという[5]。著書[編集]
●﹃實弗的里亞論﹄ ●﹃獨逸醫學辭典﹄脚注[編集]
(一)^ ab新宮凉園氏﹃慶應義塾出身名流列伝﹄三田商業研究会編、実業之世界社、1909年
(二)^ ﹃播州尚友傳 ; 新宮凉庭言行録﹄, p. 37.
(三)^ ﹃新宮凉庭傳﹄山本四郎、ミネルヴァ書房、1968年、p253
(四)^ ab新宮凉国﹃人事興信録﹄14版上(人事興信所, 1943)
(五)^ ﹃播州尚友傳 ; 新宮凉庭言行録﹄, p. 47.