日名子実三
日名子 実三︵ひなご じつぞう[1]、1892年10月24日 - 1945年4月25日︶は、日本の彫刻家。大分県臼杵市出身。
八咫烏を意匠とする日本サッカー協会︵当時・大日本蹴球協会︶のシンボルマークをデザインしたことでも知られる。
平和の塔
5人兄弟の末子として誕生。臼杵中学校︵現・大分県立臼杵高等学校︶を卒業後、親の勧めで慶應義塾大学理財科に進学したものの程なく中退。その翌年1913年︵大正2年︶、東京美術学校彫刻家塑造部へと入学し首席で卒業。
学生時代から朝倉文夫の弟子として学び、1919年︵大正8年︶には作品﹁晩春﹂が帝国美術院展覧会に入選する等、世間的にも認知されるようになったが、1925年︵大正14年︶に作品の方向性の違いから独立することを選び、斎藤素巌と共に構造社を結成。
1931年︵昭和6年︶には、漢文学者・内野台嶺らの発案を基に八咫烏を題材に、大日本蹴球協会の﹁シンボルマーク﹂を手がける。これは大日本蹴球協会の後身である日本サッカー協会にも受け継がれ、またこのマークを基に作られた﹁日本代表エンブレム﹂は、サッカー日本代表のユニフォーム等に使用されている。
金鵄を意匠とする昭和六年乃至九年事変従軍記章︵満州事変・第一次上海事変︶や八咫烏を意匠とする支那事変従軍記章︵日中戦争︶、授与されることなく廃止され﹁幻の従軍記章﹂と呼ばれる大東亜戦争従軍記章︵太平洋戦争︶といった著名な従軍記章、1940年︵昭和15年︶に完成した宮崎県宮崎市平和台公園の平和の塔︵八紘之基柱、八紘一宇の塔︶、日本ニュース︵ニュース映画︶のテーマタイトル、法音寺三光堂等を手がけている。
1945年︵昭和20年︶4月25日、脳出血により死去。
略歴[編集]
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廃墟(1920年、大分県臼杵市臼杵公園)
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大友宗麟像(1937年(1982年復元)、大分県臼杵市臼杵公園)
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昭和六年乃至九年事変従軍記章
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支那事変従軍記章
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大東亜戦争従軍記章(未発行)
脚注[編集]
- ^ 日名子実三氏制作の石膏像「廃墟」を新装・公開しました 国立大学法人 大分大学
外部リンク[編集]
- 著名人見聞録 【第8話】 日名子実三『彫刻家』 フンドーキン醤油株式会社
- ウィキメディア・コモンズには、日名子実三に関するカテゴリがあります。