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朝川 善庵︵あさかわ ぜんあん、天明元年4月8日︵1781年5月1日︶ - 嘉永2年2月7日︵1849年3月1日︶︶は江戸時代後期の儒学者。名は鼎。字は五鼎。中根香亭の外祖父にあたる。養子として朝川同斎を迎える。
服部南郭の門人であった片山兼山の三男として生まれる[1]。兼山が中年にして没し、母が再婚した医師・朝川黙翁に養われる。12歳で折衷派の儒者・山本北山に入門。養父・黙翁に連れられ京都・摂津を遊歴し、寛政10年︵1798年︶に長崎鎮台の肥田豊州に従って長崎・薩摩に赴き、善庵の博学才識が広く知られるようになる。平戸藩主・松浦氏を初めとして津藩主・藤堂氏や大村藩主・大村氏などの大名が門人となり、私塾を江戸本所の小泉町に開いた後は、経義に詳しいことにより佐藤一斎と並ぶ名声を得た。
文化11年︵1814年︶に養父の死の床に呼ばれ、自分が片山兼山の実子であると明かされ、本姓に復するよう遺言されたが、今までの撫育の恩に報いるため終生﹁朝川﹂の姓を名乗る。
文化12年︵1815年︶、伊豆に清国船が漂着した件で韮山代官である江川英毅に依頼され、清人と筆談に当たり事態を収拾した。弘化3年︵1846年︶に学問上の業績が幕府から表彰され、12代将軍・徳川家慶に謁見を賜る。松浦氏の要請に応じて儒官となり平戸藩の機密にも参与する。嘉永元年︵1848年︶の冬に病にかかり、翌年に没する。享年69。葛飾郡小梅村常泉寺︵東京都墨田区向島︶に葬る。門人たちが相談して諡を學古先生とする。
大正4年︵1915年︶、正五位を追贈された[2]。
●﹃周易愚説﹄2巻
●﹃易説家伝旧聞﹄4巻
●﹃詩書困知説﹄6巻
●﹃左伝諸注補考﹄8巻
●﹃論語漢説発揮﹄10巻
●﹃孝経六書﹄
●﹃大学原本釈義﹄
●﹃荀子箋釈﹄8巻
●﹃仁義略説﹄
●﹃学古塾規式﹄
●﹃分田備考﹄3巻
●﹃田園地方紀原﹄3巻
●﹃鄭将軍成功伝﹄
●﹃刪定紀効新書﹄6巻
●﹃下田紀事﹄4巻
●﹃善庵随筆﹄2巻
●﹃善庵文鈔﹄8巻
●﹃善庵詩鈔﹄2巻
●﹃楽我室遺稿﹄4巻 →﹃崇文叢書﹄に収められる。
(一)^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、﹃コンサイス日本人名辞典 第5版﹄、株式会社三省堂、2009年 23頁。
(二)^ 田尻佐 編﹃贈位諸賢伝 増補版 上﹄︵近藤出版社、1975年︶特旨贈位年表 p.36
参考文献[編集]
●平戸城主・松浦熈撰碑文
●森銑三﹁朝川善庵﹂(﹃森銑三著作集﹄8巻)
●五弓久文︵雪窓︶編﹃事実文編﹄61巻
●中根香亭﹁祭外王父朝川善庵先生文﹂︵﹃香亭蔵草﹄巻之二︶
外部リンク[編集]
●善葊図書 - 国文学研究資料館蔵書印データベース 2021年5月1日閲覧。