末近宗次
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末近宗次 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 寛永2年(1625年)10月 |
改名 | 末近弟法子(幼名)→末近宗次 |
別名 | 通称:四郎三郎、四郎右衛門尉、七郎右衛門尉 |
主君 | 小早川隆景→毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 末近氏 |
父母 | 父:末近光久 |
兄弟 | 吉通、宗次 |
子 | 就久、中原就直 |
末近 宗次︵せちか むねつぐ︶は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。小早川隆景、毛利氏の家臣で長州藩士。父は末近光久。苗字の読みは﹁すえちか﹂とも。知行は200石。
生涯[編集]
小早川隆景家臣の末近光久の子として生まれる。 天正10年︵1582年︶の備中高松城の戦いで、清水宗治、清水月清入道、難波宗忠と共に祖父・信賀が切腹し、父の光久が末近氏の家督を相続したが、光久もその後早くに死去したようで、宗次の兄・吉通︵宮寿丸︶と宗次︵弟法子︶に年不詳4月10日付で送った書状では、信賀が備中高松城で切腹したため、せめて子の光久には褒美を与えようと内心考えていた所、光久が死去してしまい無念であると述べられている。光久の後を兄・吉通が継いだが、兄も早世したため、宗次が後を継いで隆景に仕えた。 慶長2年︵1597年︶に隆景が死去すると、宗次は毛利輝元と秀就に仕えて200石を与えられ、慶長5年︵1600年︶7月7日に﹁四郎右衛門尉﹂、慶長20年︵1615年︶1月11日に﹁七郎右衛門尉﹂の官途名を輝元から与えられた。 寛永2年︵1625年︶10月に死去。子の就久が後を継ぎ、寛永6年︵1629年︶閏2月15日に秀就から宗次の知行200石の相続を認められた。参考文献[編集]
- 『萩藩閥閲録』巻40「末近九左衛門」、巻95「中原貞七」