村川堅固
人物情報 | |
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生誕 |
1875年1月28日 日本 熊本県熊本市 |
死没 | 1946年1月21日 (70歳) |
出身校 | 東京帝国大学 |
子供 | 村川堅太郎(歴史学者(ギリシャ・ローマ史)) |
学問 | |
研究分野 | 西洋史 |
研究機関 | 東京帝国大学 |
村川 堅固︵むらかわ けんご、1875年1月28日 - 1946年1月21日︶は、日本の西洋史学者。
経歴[編集]
1875年、熊本県熊本市薬園町で生まれた。旧制第五高等学校を卒業後、文科大学︵東京帝国大学︶史学科に入学。1898年に同大学を卒業した。 1900年より陸軍大学校教授嘱託として勤務。英語圏における日本史研究の嚆矢として知られるジェームズ・マードックの﹃日本の歴史﹄の執筆を手伝う[1]。1903年より3年間、ヨーロッパに留学。1906年に帰国し、文科大学助教授に任ぜられた、1912年、教授昇格。研究内容・業績[編集]
西洋古代史を専門とし、日本におけるこの分野の開拓者である。エジプト古代史、ギリシャ文化史、ローマ史などを講じ、著書として﹃西洋上古史﹄ (1916) 、﹃ギリシャ史﹄ (1931) などがある。古代のみならず西洋史一般に関心が深く、特に日本と西洋の交渉史研究が多かった。第一次世界大戦以後はその傾向が強く、﹃世界改造の史的観察﹄ (1920) 、﹃米国と世界大戦﹄ (1922) などがあり、ペイソン・トリートの﹃日米外交史﹄の訳 (1922) 、またレオポルト・フォン・ランケの﹃世界史論進講録﹄ (1918) は名訳とされた。村川家住宅・別荘[編集]
村川は1911年に雑司ヶ谷(文京区目白台)に本邸を建てて住み、その後2か所の別荘に3軒の家を建てた。衣食住のうち﹁住﹂に重きを置いたといい、それらは残っている[2]。 文京区目白台にある1911年︵明治44年︶築の自宅︵主屋・洋館︶は、1920年︵大正9年︶築の蔵を含め﹁村川家住宅﹂として国登録有形文化財[3][4][5]。1926年︵昭和元年︶に自ら設計し建築された別荘は千葉県我孫子市寿にあり﹁旧村川堅固別荘﹂として千葉県の近代産業遺跡となっている[6]。家族・親族[編集]
外部リンク[編集]
脚注[編集]
(一)^ 世界の日本研究 2003: THE STUDY OF JAPAN IN AUSTRALIA-A Unique Development over Eighty YearsMisuzu Hanihara CHOW 編 国際日本文化研究センター, 2003.5.30.
(二)^ ﹁村川堅固・堅太郎がのこしたもの﹂
(三)^ “文化遺産オンライン 村川家住宅主屋”. 文化庁. 2017年6月10日閲覧。
(四)^ “文化遺産オンライン 村川家住宅洋館”. 文化庁. 2017年6月10日閲覧。
(五)^ “文化遺産オンライン 村川家住宅蔵”. 文化庁. 2017年6月10日閲覧。
(六)^ “千葉県の近代産業遺跡、近代建築メニュー”. 千葉県の近代産業遺跡. 2010年1月29日閲覧。