林鼓浪
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林 鼓浪︵はやし ころう、1887年︵明治20年︶7月9日 - 1965年︵昭和40年︶1月25日︶は、日本の郷土史家、日本画家。徳島市人間文化財指定。本名は林 宜一︵はやし のぶいち︶。
﹁阿波踊り﹂の名付け親であり[1]、﹁徳島最後の粋人﹂﹁徳島の生き字引﹂としても知られる[2]。
生涯[編集]
1887年7月9日、徳島県徳島市安宅町に生まれ、後に両父母が本家である徳島市西大工町の商人宿﹁岩崎屋﹂の夫婦養子となったことにより岩崎屋に入籍する[3][注釈 1]。1898年3月、徳島市新町小学校を卒業する[4]。1907年、神戸・大阪において演劇・活動写真関係の手伝いをする[5]。また、幼少期に守住貫魚の高弟である森魚淵︵1830-1909︶に絵画を教わり[3]、郷土研究を吉田東洲︵1856-1916︶に教わった[6]。 1910年、眉山保勝会の役員として眉山公園の絵画を描く。1917年、芸術写真愛好家達とともに﹁徳島ベスト会﹂を創立する[注釈 2]。1922年、鳥居龍蔵が城山の貝塚を発見した際に、原住人生活の画を描く[5]。 1927年11月1日から11月7日にかけて、光慶図書館︵現・徳島県立図書館︶にて展覧会を開く[4]。 1930年5月25日に阿波郷土研究会を創立し、同年11月15日に光慶図書館光読会を創立する[4]。 1950年6月、徳島市史談会会員、徳島県文化財保護委員︵後に徳島県文化財専門委員︶となる[4]。 1952年11月3日、徳島県教育委員会から教育功労者として、1953年5月3日、徳島県知事から、1955年11月16日、全国社会教育協会から社会教育功労者として、1960年11月2日、文化財保護委員会から文化財功労者として表彰される[4]。 1964年5月31日から6月3日にかけて、丸新百貨店ギャラリーにて作品展を開く[4]。 1965年10月20日、徳島市から徳島市人間文化財︵第一号︶に指定される。同年11月25日、急性肺炎により死去。享年78歳。正六位に叙せられる。同年11月27日、下助任町の弘誓寺において検番葬︵富街葬︶が行われる。同年12月26日、勲五等瑞宝章が追贈される[7]。 1966年6月3日から6月5日にかけて、徳島県立博物館にて遺作展が開かれる。同年11月25日、徳島市立文化センターにて﹁林鼓浪を偲ぶ会﹂が開催される。1969年9月23日、弘誓寺に墓碑が建立される[7]。著作[編集]
単著[編集]
- 『阿波踊』林鼓浪、1951年8月。
- 林鼓浪遺作集編集委員会編 訳『林鼓浪遺作集 徳島市人間文化財』徳島市中央公民館〈徳島市民双書 2〉、1970年3月。
- 『眉山は緑』徳島県出版文化協会、1989年11月。
画[編集]
- 『昔なつかしい徳島風景』林鼓浪、1966年。
- 『なつかしの徳島風物 明治・大正から昭和へ』松本進解説、出版、1970年。
- 徳島市立徳島城博物館編 編『阿波よしこのが聞こえる 林鼓浪の描く、なつかしき徳島風景』徳島市立徳島城博物館、2004年7月。
- 徳島市立徳島城博物館編 編『林鼓浪 画業と生活 徳島最後の粋人』徳島市立徳島城博物館、2010年7月。
共著[編集]
作詞[編集]
- 『徳島音頭(今を昔に踊風俗・富街新曲)・阿波踊』今藤長三郎作曲、富田町芸妓総出流連中、1933年。
連載[編集]
- 『眉山は緑』(徳島新聞、1954年)
- 『阿波物語』(徳島新聞、1954年-1955年)
- 『続眉山は緑』(徳島新聞、1957年-1958年)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 横山昭 著、徳島の百人編集委員会編 訳「林 鼓浪」『徳島の百人』徳島市中央公民館〈徳島市民双書 1〉、1968年10月23日、289-292頁。
- 松本進 著、林鼓浪遺作集編集委員会編 訳「林鼓浪年譜」『林鼓浪遺作集 徳島市人間文化財』徳島市中央公民館〈徳島市民双書 2〉、1970年3月1日、159-160頁。