柳川春葉
柳川春葉 | |
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誕生 |
1877年(明治10年)3月5日 日本・東京府下谷区(現・東京都台東区) |
死没 | 1918年1月9日(40歳没) |
職業 | 小説家、劇作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
ジャンル | 小説 |
代表作 | 『白すみれ』、『夢の夢』、『泊客』、『生さぬ仲』、『かたおもひ』 |
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柳川 春葉︵やながわ しゅんよう、1877年︵明治10年︶3月5日 - 1918年︵大正7年︶1月9日︶は、日本の小説家、劇作家。本名、専之︵つらゆき︶。
尾崎紅葉のもとに弟子入りし、その補筆を得た﹃白すみれ﹄で地位を確立。紅葉門下の四天王と呼ばれ、家庭小説を多く残した。代表作に﹃生さぬ仲﹄︵なさぬなか︶など。
経歴[編集]
1877年3月5日、東京府下谷区︵現・東京都台東区︶二長町三十六番地に生れた。父は至といい、龍野藩の江戸詰家老だったが、明治維新後は紙問屋を経営し、これに失敗して破産。牛込区︵現・新宿区︶に転居することとなる。母むつは、春葉が4歳のときに長女たかを生んで没した。母の代わりにその姪ふじが面倒を見ることになり、ふじは後に継母となったが春葉とは不仲であった。 赤城小学校時代、村山鳥径ら友人の影響で文学に興味を持つようになる。卒業後英語塾に通い、広津柳浪に弟子入りを望むが拒まれ、1893年︵明治26年︶、親の反対を押し切って尾崎紅葉を訪ね、その玄関番となる。同年、探偵小説﹃怨の片袖﹄︵原作者不明︶を翻案。作家としてスタートを切る︵ただし、春葉自身はこれを処女作とはしていない︶。 その後﹃凱旋門﹄﹃百尺崖﹄などの詩を発表。1897年︵明治30年︶、紅葉の補筆がなされた短編小説﹃白すみれ﹄を発表し、これが出世作となる。さらに、初長編となる﹃夢の夢﹄︵1900年︵明治33年︶、読売新聞連載︶や﹃泊客﹄などの作品で名声を得、泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声とともに紅葉門下の四天王と呼ばれるようになった。 1904年︵明治37年︶に結婚。この頃から、その作品が﹁家庭小説﹂と呼ばれるようになる。1906年︵明治39年︶には、﹃母の心﹄を発表し演劇脚本家としても活動を始めた。1911年︵明治44年︶には松竹の脚本部に迎えられている。 1912年︵明治45年︶、大阪毎日新聞、東京日日新聞︵共に現・毎日新聞︶両紙で﹃生さぬ仲﹄の連載を開始。同作品は紙上で人気を博しただけでなく、舞台化もされ、50日間の打通し興行となる人気であった。後に、8度にわたって映画化もされている。1916年には、大阪朝日に﹃かたおもひ﹄を連載し、さらにファンを増やした[1] 1918年︵大正7年︶元旦に急性肺炎を起こし入院、9日に死去。菩提寺は芝の天光院。家族[編集]
妻のさつ子は、尾崎紅葉が病気の際の看護婦だった。その甲斐甲斐しい介護ぶりに惚れ、兄弟子泉鏡花の協力を得て、結婚。[2]子に娘の千枝子と、柳川の急死後生まれた息子の数彌がある。[3]作風[編集]
自身の境遇を反映してか、家庭、中でも特に継母、後妻、再婚などをテーマにした作品が多い。その他に、﹃全世界大騒乱 怪飛行艇﹄︵1911年、押川春浪と共著︶のような冒険小説も残している。その他[編集]
●師・尾崎紅葉が1903年︵明治36年︶に死去した際には、ショックから半年間執筆依頼を断っている。 ●大の相撲好きで、江見水蔭の作った相撲クラブ﹁江見部屋﹂に出入りしており、家に本格的な土俵も作っていた。雑誌に相撲に関する文章を寄稿したり、﹁相撲新聞﹂という個人紙を発行したりもしている。 ●1906年に引っ越した家の近くに佐藤紅緑が住んでいたため、その後は親しく交際するようになった。この時、春葉の隣の家には野尻清彦︵後の大佛次郎︶が住んでいた。 ●1911年︵明治44年︶に、プロ野球球団の出現の必要性を論じている。日本に初めてプロ野球球団が誕生したのは1921年︵大正10年︶、本格的なプロ野球の興行がなされるようになるのは1936年︵昭和11年︶である。 ●しかし、野球の腕自体は褒められたものではなかった。佐藤紅緑の息子で詩人のサトウハチローは﹁文壇人でベースボールをやるのは、紅緑オヤジと押川春浪と柳川春葉よりいなかったものだ。オヤジと春浪は曲りなりにも、どうにかベースボールを心得ていたが、春葉氏と来たら、てんでルールも何も知らないで、ユニホームを着ていたものである﹂という文章を残している。 ●骨董趣味もあり、湯吞みやペン先のコレクターでもあった。[4]脚注[編集]
- ^ 『現代之人物観無遠慮に申上候』河瀬蘇北 著 (二松堂書店, 1917)
- ^ 『美人の戸籍しらべ : 現代評判』横山流星著 (天下堂, 1919
- ^ 『婦女界』(大正8年2月号「故柳川春葉未亡人を訪ひて」太田菊子(1919))
- ^ 『世界名士の癖』榎本秋村著 (実業之日本社, 1916)