櫻井ちか
(桜井ちかから転送)
櫻井ちか︵さくらい ちか、1855年5月19日︵安政2年4月4日︶ - 1928年︵昭和3年︶12月19日︶は、日本の教育者。櫻井女学校、櫻井女塾を設立して、日本における初期の女子教育を担った。なお、自著でちか子との表記も見られる。
略歴[編集]
1855年︵安政2年︶東京日本橋で生まれる。1872年︵明治5年︶海軍士官の櫻井昭悳︵さくらいあきのり︶と結婚。神田の芳英社、横浜の共立女学校で英語を学ぶ。洗礼を受け、キリスト教徒となる。その後、明悳もちかの影響を受けてキリスト教徒となる。 1876年︵明治9年︶日本人による初めてのキリスト教主義の女子学校として、桜井女学校を設立する[1]。1879年︵明治12年︶同校は経営難に陥る一方で、ちかと昭悳夫婦は函館に赴任することとなった[1]。そこで、経営をアメリカ長老教会に移し︵校長は矢嶋楫子︶、1880年︵明治13年︶麹町に移転させた[1]。函館では函館女子師範学校で教鞭をとった。 1889年︵明治22年︶ 櫻井女学校は新栄女学校と合併し、校名を﹁女子学院﹂とする[1]。矢嶋楫子が引き続き院長となった。 1895年︵明治28年︶東京本郷︵向ヶ丘弥生町︶に夫櫻井昭悳が開いていた向ヶ丘教会内に、家庭的小規模な寄宿学校を開設し、アメリカ女子教育を取り入れる。1898年︵明治31年︶に英語専門学校へと拡大し、名称を櫻井女塾と改名、さらに1933年︵昭和8年︶には櫻井女子英学塾と改名、1942年︵昭和17年︶昭和女子大学に吸収された。 1928年︵昭和3年︶逝去。享年73。家族[編集]
●父・平野与十郎 - 上野黒門町で、幕府の神宝方︵祭式用具等を扱う部署︶の御用商人をしていた[2]。 ●夫・櫻井昭悳 ●養女・倉辻ふき︵1879-1945︶ - 2代目塾長。生後すぐにちか夫婦の養女となり、共立女学校を経て東京音楽学校卒業後、倉辻明義︵1877-1945︶と結婚、四男一女を儲けた[2]。夫の明義は大洲市に生まれ、旧制松山中学、早稲田大学英語政治科を卒業し、倉辻白蛇の筆名でやまと新聞編集長、読売新聞論説委員をしていた[2]。夫婦ともに東京大空襲により戦災死した[2][3]。 ●養子・満州男︵1910-1977︶ - 倉辻ふき・明義夫妻の四男。櫻井昭悳没後にちかの養子となり、桜井家を継いだ[2]。立教大学卒、商船会社勤務。 ●曾孫・櫻井淳司︵1940-︶ - 満州男の二男。牧師・教育者。1978年に現在のいわゆる﹁フリースクール﹂に繋がる草分け的存在である﹁ニューライフカレッジ﹂を福島県石川町に創立。﹃櫻井ちか小伝﹄を上梓[2]。主要著書[編集]
●﹃西洋料理教科書﹄1910年 紫明社 ●﹃実用和洋惣菜料理﹄1912年 実業之日本社 ●﹃手軽に出来る家庭料理﹄1916年 実業之日本社 ●﹃三百六十五日 毎日のお惣菜﹄1917年 政教社 ●﹃楽しい我が家のお料理﹄1925年 実業之日本社 ●﹃日々活用 御料理辞典﹄1927年 文武書院︵名義‥ちか子、肩書き‥櫻井女塾長︶参考文献[編集]
●芳賀登ほか﹃日本女性人名辞典﹄︵普及版︶ 1998年 日本図書センター ISBN 4-8205-7881-2
●﹃女子学院の歴史﹄[要文献特定詳細情報]
●﹃キリスト教歴史﹄[要文献特定詳細情報]
●櫻井淳司﹃櫻井ちか小伝﹄[要文献特定詳細情報]