アメリカ合衆国長老教会
アメリカ合衆国長老教会︵アメリカがっしゅうこくちょうろうきょうかい、英: Presbyterian Church in the United States of America、PCUSA︶は、アメリカ合衆国にかつて存在した長老派教会の教派である。アメリカ合衆国の独立後の1789年に形成され、1958年まで存在していた。
歴史[編集]
PCUSAの最初の大会は、1789年フィラデルフィアで開かれた。そして聖書に従属する基準としてウェストミンスター信仰告白、ウェストミンスター大教理問答、ウェストミンスター小教理問答を採用した。ウェストミンスター信仰告白は合衆国に合わせて若干修正された。 第二次大覚醒リバイバルの時にカンバーランド長老教会がPCUSAから分離した。 1836年に、ニュー・スクール︵リバイバル︵信仰復興︶賛成派、穏健カルヴィニズム︶とオールド・スクール︵伝統的礼拝スタイル、厳格カルヴィニズム︶に分裂した。1869年に再合同した。 1861年に米国南部の州の長老教会は、奴隷問題のためPCUSAから離れ合衆国長老教会︵Presbyterian Church in the United States、略PCUS︶を形成した。南部でPCUSAにとどまった教会は、しばしば軽蔑的に﹁北部の教会﹂と呼ばれた。 1906年にカンバーランド長老教会の多くがPCUSAと再合同した。その際に、ウェストミンスター信仰告白はジョン・ウェスレー派のアルミニウス主義の影響を受けて修正された。 PCUSAは1922年から1936年に聖書の霊感と権威、信仰告白、禁酒運動をめぐって、キリスト教根本主義︵福音主義︶と、近代主義者︵自由主義神学︶との重大な論争︵メイチェン論争︶を経験した。この論争によってPCUSAから分離した保守派が正統長老教会を形成した。これはPCUSAにおける最初の保守派のシスマになった。 1958年に、北米長老教会と合併し、1983年さらに現在のUSA長老教会︵Presbyterian Church (U.S.A.)︶が形成された。海外伝道局[編集]
ニュー・スクールとオールド・スクールの分裂の翌年、1837年に、それまでのようにアメリカン・ボードに参加する形で宣教師を派遣することをやめてオールド・スクールで独自に海外伝道局︵米国長老海外伝道局︶を設置した。その時の最初の宣教師の一人がジェームス・カーティス・ヘボンである。 1854年に徳川幕府と米国政府の間に日米和親条約が締結されると、最初に清国在住の宣教師デヴィー・ボサン・マッカーティーに日本へ宣教師として渡航するように命じた。しかし、一般人の日本渡航は許されず、失敗した。 1858年7月29日に日米修好通商条約が締結された。その第8条によりキリスト教宣教師の来日が可能になった。そこで、海外伝道局では、自ら志願したヘボンと清国在住のジョン・リビングストン・ネビアスを日本宣教師に任命した。[1]日本派遣宣教師[編集]
- J・C・ヘボン(1859)
- D・タムソン(1862)
- E・コーンズ(1868)
- C・カロザース(1869)
- H・ルーミス(1872)
- E・R・ミラー(1872)
- O・M・グリーン(1873)
- J・C・バラ(1875)
- W・インブリー(1875)
- K・M・ヤングマン(1875)
- G・W・ノックス(1877)
- T・C・ウィン(1877)
脚注[編集]
- ^ 中島耕二2003年、15-16頁