梁場山城
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梁場山城︵やなばやまじょう︶は、備中国浅口郡︵岡山県倉敷市︶船穂町柳井原殿坂にあった日本の城︵山城︶。築城年数は不明である。
概要[編集]
柳井原殿坂の山頂︵一名古城山︶は、円形の平坦地︵東西24.7m、南北19.7m︶で、その南方には高さ1.8mの堤がある。北と東側は、高梁川に臨み断崖絶壁で、南方は、山頂から約20m下ったところが半月形の緩やかな平地になっている。旧小学校の校庭となっていたためと考えられる。現在旧小学校校舎と、稲荷神社が残っている。歴史[編集]
1723年︵享保8年︶頃編纂された﹁古戦場備中府志﹂には、次のように記述されている。 ﹁簗場山城、柳井原村、城主横溝源吾忠元。当城は鴨方︵鴨方城︶の砦なり。東鏡十巻にいう、横溝八郎先陣にて二百騎とも記している。1240年︵延応2年︶正月5日御弓始め、射手秋庭小次郎、横溝六郎、鎌倉勢に南部、横溝と称して世に武名を顕しをはる﹂ 1582年︵天正10年︶の高松城水攻めの頃、柳井原の梁場山城は、高松城を救援のため東上した毛利輝元の救援軍2万人が留まった猿掛城︵矢掛町横谷と真備町呉妹の境界︶の出城であったといわれている。 南側の脇道から頂上に上る道沿いに20基ほどの墓が並んでいるが、横溝と読めるものが残っていて、梁場山城と横溝家の関係が窺い知れる。 また余談だが、作家の横溝正史の父は船穂町柳井原出身で、第二次世界大戦中正史が隣町の真備町に疎開中、柳井原を訪れたことがある。参考文献[編集]
- 柳井原史 簗場山城址と水郷のふるさと 船穂町 柳井原史編集委員会編
- 古戦場備中府志 吉備群書集成 作陽書房
- 岡山県歴史人物事典 山陽新聞社 (横溝正史)