水木京太
水木 京太︵みずき きょうた、1894年︵明治27年︶6月16日 - 1948年︵昭和23年︶7月1日︶は、日本の劇作家、演劇評論家である[1][2]。水木京太は筆名で、本名は七尾 嘉太郎︵ななお かたろう︶[1][3]。声優の草分けである女優の七尾伶子は実娘である[2][3]。
経歴・人物[編集]
秋田県横手町大町中丁の旧家に、町会議員を何度も務めた七尾重兵衛の長男として生まれる[4]。慶応義塾大学に入学後文学を専攻し[1][3]、在学中に小山内薫に師事した[2][3]。盲腸による腹膜炎で一年休学[5]。大正8年︵1919年︶卒業。[6] 資生堂の嘱託となり、大正9年︵1920年︶から同14年︵1925年︶まで﹃三田文学﹄の編集に携わりつつ[5]、慶応義塾大学講師として劇文学を担当。[7]この間、劇作家としても多くの戯曲を発表し、評論家として﹃東京朝日新聞﹄に演劇の評価も記した[2]。また、﹃赤い鳥﹄等で児童文学も多数執筆している。童話作家以外では掲載回数が最も多く、35作ある[8]。さらに、小説の執筆、ラジオドラマの演出︵脚色も?︶なども行っている[9]。 大正13年︵1924年︶小林豊子と結婚。翌年長女の伶子が、昭和2年︵1927年︶には長男の路伊が生まれる。[5] 昭和5年︵1930年︶に丸善︵現在の丸善雄松堂︶の嘱託となる︵1946年まで︶。洋書の調査解説宣伝、社史の編纂、同社が発行する読書雑誌﹃学鐙﹄を主宰する。[5] またヘンリック・イプセンに造詣が深く、その作品の研究をライフワークとして継続するが[2]、生涯を通してイプセンの書籍は一冊も出さなかった。戦時中は戦災で書斎と大量の本を失う。防空壕に持ち込んで難を逃れたのは、イプセンと猫に関するわずかの書籍だった。[10]愛猫家としても知られたが、夫人が猫嫌いであったため、飼うことは諦め、猫に関する書籍を多数収集。[4]猫の随筆もいくつも残している。 戦後には月刊雑誌﹃劇場﹄を立ち上げ、主幹として活動した[1][3]。しかし昭和23年︵1948年︶、かつて罹った盲腸による腹膜炎が再発し、中野病院にて急逝[5]。55歳だった。没後は多磨霊園に葬られた。 ﹃劇場﹄の水木京太追悼特集に文章を寄せたのは、小宮豊隆、高橋邦太郎、岩田豊雄︵獅子文六︶、伊藤熹朔、三宅周太郎、宇野信夫、木村毅、八田元夫、大江良太郎、浜村米蔵、伊志井寛、潮崎佐一、岡田八千代、山本安英、杉村春子、大岡龍男、七尾伶子、兒玉琢爾、久保田万太郎である。[5] 演劇評論家の杉山誠は水木について、﹁殊のほか潔癖で律儀で強情であった﹂﹁孤高の人であった﹂が、決して独善ではなく、温かい愛情があったと記している[11]。岩田豊雄は﹁あんなガンコ男がどこにいるだろう。イプセンとオサナイに一生を捧げた男。日本の劇壇に一人しかいない男だった﹂とその死を悼んだ。[6] 東京都高等学校演劇コンクール中央発表会の﹁水木京太賞﹂は、水木の功績を記念したものである[6]。戯曲・著作[編集]
戯曲[編集]
30篇近い戯曲を残した。[6] ●﹃浅瀬﹄︵処女作︶[10] ●﹁人形﹂︵少年少女劇、1922年、﹃赤い鳥﹄掲載︶ ●﹃姉妹﹄︵﹃家﹄三部作︶ ●﹃次男﹄︵﹃家﹄三部作、1923年︶ ●﹃継母﹄︵﹃家﹄三部作、1925年︶ ●﹃殉死﹄︵初演・1926年7月︶ ●﹃嫉妬﹄︵1926年︶ ●﹃毒蟲﹄︵1926年︶ ●﹃敵討増補﹄︵1926年︶ ●﹃門を毀す﹄︵1927年︶ ●﹃三十日の月﹄︵1927年︶ ●﹃昇降機﹄︵1928年︶ ●﹃新居の客﹄︵1929年︶ ●﹃フォード躍進﹄︵初演・1930年︶ ●﹃谷間へ行く女﹄︵1930年︶ ●﹃泥凝土建築﹄︵1930年︶ ●﹃結婚季節﹄︵1936年︶ ●﹃虹の翼﹄︵1942年︶ ●﹃郊外にて﹄ ●﹃素顔﹄ ●﹃仲秋名月﹄ ●﹃コンクリイト﹄ ●﹃地上の母﹄ ●﹃本望﹄ ●﹃福沢諭吉﹄ ●﹃明日﹄児童文学[編集]
すべて﹃赤い鳥﹄掲載。[12]- 「同情学校」(1924年4月)
- 「世界漫遊」(同7月)
- 「猫の背中」(同9月)
- 「果物の国」(同10月)
- 「木の饅頭」(同12月)
- 「大和魂」(1925年1月)
- 「猫の風船」(同2月)
- 「鼠の味」(同5月)
- 「ガンヂス河へ」(同8月)
- 「悪魔の鍵」(同9月)
- 「地主の税金」(同10月)
- 「トムの病気」(同11月)
- 「走る鍋」(1926年1月)
- 「貢ぎ船」(同2月)
- 「まがった樅の木」(同4月)
- 「お花見」(同6月)
- 「竹の影」(同9月)
- 「二人の金持」(同12月)
- 「天狗息子」(1927年2月)
- 「王妃の猫」(同4月)
- 「二つのお願い」(同6月)
- 「日を射る矢」(同8月)
- 「重い兜」(同10月)
- 「つんで来た宝」(同12月)
- 「生きた切符」(1928年1月)
- 「不思議な店」(同3月)
- 「フランスの牛」(同5月)
- 「龍のひげ」(同6月)
- 「唖の笑い」(同8月)
- 「ふところの雷」(同10月)
- 「猫の返礼」(同12月)
- 「第一の勇士」(1929年2月)
- 「祖国の地図」(同3月)
- 「三本足の鳥」(1931年2月)
- 「海すずめ」(同10月)
著作[編集]
- 『文芸童話集 1 (新日本少年文学全集 ; 10)』(共著、1929年)
- 「鈴蘭の卓」(『令女界』1929年) - 小説
- 「遅ざくら」(『令女界』1929年) - 小説
- 『新劇通 (通叢書 ; 第4巻)』(1930年)
- 『戯曲集 福沢諭吉』(1936年)
- 『人生読本』(編纂、1940年)
脚注[編集]
(一)^ abcd“水木京太”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus︵講談社︶株式会社DIGITALIO. 2023年2月18日閲覧。
(二)^ abcde“水木 京太”. 20世紀日本人名事典︵日外アソシエーツ︶株式会社DIGITALIO. 2023年2月18日閲覧。
(三)^ abcde“水木京太”. 日本大百科全書︵小学館︶株式会社DIGITALIO. 2023年2月18日閲覧。
(四)^ ab﹃横手郷土史年表‥明治元年-昭和43年﹄彦栄堂、1968年、97頁。
(五)^ abcdef﹃劇場 3(6)﹄演劇文化社、1948年9月、7頁。
(六)^ abcd﹃現代日本戯曲選集 第5巻﹄白水社、1955年4月5日、448,449頁。
(七)^ 20世紀日本人名事典,367日誕生日大事典. “水木 京太(ミズキ キョウタ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年3月10日閲覧。
(八)^ ﹃赤い鳥研究﹄小峰書店、1965、122頁。
(九)^ ﹃文芸年鑑 昭和5年版﹄新潮社、1929年6月、296,382頁。
(十)^ ab﹃日本演劇 6(9);[9月號]﹄日本演劇社、1948年9月、24,25頁。
(11)^ ﹃現代戯曲選集 第2巻﹄河出書房、1951年7月15日、265頁。
(12)^ ﹃赤い鳥研究﹄小峰書店、1965、324,325頁。