水谷緑亭
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水谷 緑亭︵みずたに りょくてい、天明7年︵1787年︶- 安政5年8月16日︵1858年9月22日︶︶は、江戸期の川柳作家である。5世川柳を襲名した。別号は腥斎 佃︵なまぐさい たづくり︶。
﹃贈答百人一首﹄の表紙
﹃贈答百人一首﹄
本名は雅好、通称は金蔵。幼いころ父をなくし、江戸佃島の漁師に養われる。魚問屋を開き名主となった。2世川柳︵柄井弥惣右衛門︶に川柳を学び、腥斎 佃と号した。柄井川柳が流行させた﹁川柳﹂︵前句付け︶は川柳の没後、一時勢いを失うが、南町奉行所の同心であった4世川柳︵人見周助‥襲名前の号、眠亭賤丸︶が句風を改め、﹁川柳﹂の勢いを回復させた。天保の改革の綱紀粛正の流れの中で、役人が前句付の点者をすることをはばかることなどで、天保8年︵1837年︶に緑亭が五世川柳を継承した。緑亭は10代から句作を初め、衆望を集めたが、地味な人柄で、養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などで、町奉行所から三度にわたり褒章を受けていた。緑亭は﹁柳風式法﹂として、﹁政事を読まない﹂、﹁貴顕の人々の実名を入れない﹂など8項目の式法を定め、﹁句案十体﹂︵正体、反復、比喩、半比、虚実、隠語、見立、隠題、本末、字響︶を定めて、﹁川柳﹂を﹃柳風狂句﹄と名付けた。
多くの選者が任意に選句を行うことにより繁多になった﹃誹風柳多留﹄を整理するために、天保12年︵1841年︶から﹃新編柳多留﹄の刊行を初め、嘉永2年︵1849年︶まで55編を刊行した。草双紙﹃祥瑞白菊物語﹄や、﹃俳人百家撰﹄などの著書もある。安政5年︵1858年︶没。築地本願寺に葬る。法号は釋浄豊。向島三囲社に句碑あり、﹁和らかくかたく持ちたし人心﹂と[1]。没後、川柳の名跡は長子の醒斎ごまめ︵和風亭川柳︶に継がれた。現墓所は杉並区永福の築地本願寺和田堀廟所。